近状

日々の雑事に追われて、したいことができないのならいったい、いつ僕はやりたいことをやるのだ。そのような問題を僕は何度も尋ねられてきた。多くの創作物、僕の憧れるものに問いかけられ続けてきた。僕は死ぬ。このままでは僕は、このまま死んでしまう。いつか僕は僕のしたいことをして生きられるだろうか。僕は僕の本当にしたいことを見つけることができるのだろうか。

休日が終わろうとすると僕は憂鬱になる。僕はまた出勤する。そしてさらにミスを重ねて、その記憶だけを残してしぼんでいく、ような気がする。言葉を濁すのは、きっとそのようなミスによってでも僕は成長しているのだと思いたいからで、そう思えなければ僕は、とっくにこんな仕事やめている。僕はとにかくミスをする。つまらないミスが無くならない。注意深くあれば無くなるようなミスをする。怠惰さに起因したミスをする。そして僕は嫌になる。書いてみれば分かる。それでいったいどんな成長が得られるというのか。ミスしても気にしないような、そんな気持ちの悪いストレス耐性だけが成長するのだ。

何度問いかけられても僕は変わらず、怠惰に過ごす。怠惰に過ごすための対価だとするなら、この怠惰さなどというものはまったく忌々しいものであり、もちろん僕が望んでいるものなんかじゃない。僕が望むのは僕に都合の良い怠惰さであって、いずれしわ寄せの来ると知っていて放置する夏休みの宿題のようなものではないのだ。たとえその宿題を放置したまま新学期が始まって、結局提出すること無くウヤムヤになったとしても、その、しわ寄せが来るのだとと知っていて過ごす怠惰な生活になんて、まったく何の魅力もない、どころか、いっそ死んでしまったほうがマシだと僕は思う。

そうして僕は日々の雑事のせいだと言い、また書いてもしかたないような文章を書く。このまま死んでしまうのなら先に死んでしまいたいと思う。とはいえ、概ね僕は人生に満足してるから、よほど面倒な事がない限りは自殺しようなんて思わない。ただ僕は今日の夜に布団に入って入眠したら、そのまま目がさめなければいいのにと思う。

明日も僕は通勤する。それが嫌でこんな文章を書く。明日も仕事をする。僕でなくてもできる仕事だ。たまたま僕にあてがわれた仕事だ。そしてミスをする。それを僕は謝罪する。嫌な気分になり、死にたいと思う。それをまた忘れる。そしてまた通勤する。文章にしてみるとよほど気持ちの悪い人生を送っているのだと思う。もちろんこの中には日常があって、嫌な気分になった分だけ給料もある。いや、これは労働した分だけ払われるものであって、苦痛に払われるものではない。?。

しかし苦痛だ。働きたくない。働かなくてもいい世の中が来ることを祈る。そのために人間はもっと進化するべきだと思う。人間はもっと進化して、僕を自由にするべきだと思う。僕だけは何もせずにぼんやり暮らしてもいいってことにすればいいと思う。僕だけでいい。僕以外のことはどうでもいい。自殺すればいいし、車にはねられてもいいし、台風に吹き飛ばされてもいいし、戦争で殺しあってもいい。僕は何もしたくない。僕以外がどうなっても知らない。

部屋が暑い。