変わらないですな

なんも変わってないですね。なんか、ちょっと安心しました。高校生のときに友達に紹介された美容院のURLは、そのままの形で僕のブックマークに保存されている。もちろん一度だって足を運んだりはしていない。

変わったって思った。というか、変わっちゃうんじゃないかと思った。いや、どうだろうなぁ。どうとも思ってないってのが正解のような気もするが。

ここに来て僕がなぜ頻繁に「どうしたいか」を考え始めたのか。今まではそんなこと何度も考えなかった……いや、本当か? なんにせよ、その時々の悩みなんてその時々にしか重要性はないのだろう。

知っていれば上手くやれたはず、なんてことは僕にとってありえないことだ。知っていたって僕は中学生になっただろうし、苦い思い出ばかりを積み上げるのだと思う。苦いだけだったろうか? 苦いだけだったな。たぶん、頭の中がピンクの花畑過ぎたので、現実がそのバランスを取るために苦いものになったのではないかと思う。頭の中の幸せというのはエピソードじゃないので忘れてしまう。現実に起こったことってのは逆に記憶に残りやすいものだ。

というわけで今も昔も変わらずつまらない現実だと言いたい。変わったのはお馴染みの、ヒゲの生えた顔くらいなわけで、ようは時間が切り取られたのかと。切り取られるものなのかしらないけど。

人の寿命から考えて、この程度の時間なんてそれほど大事じゃないと書いた人間に、いつまで生きられるか分からないのに、どれほどの時間が重要じゃないなんて言えるんだとコメントしているところを見かけた。

いつ死んでしまうのか。明日には死んでしまうとなったら、人は必死になれるか。ひと月後だったら、一年だったら、十年だったら。

一日一日を大事にするって言葉は、本当にそんな浅はかな考えから生まれたものなのだろうか。明日同じ命があるか分からないから、今日を精一杯生きる……のか。べつに、そのことについての詳しい論理的な考えなんて欲しくはないけど、とりあえず気に食わないことは確かだ。

最後に無様な死に方をしたから今までの人生が無益だったのか。また、その逆について。

どちらにしても僕は、納得のいく気持ちにはなれない。自分で納得するしかない、という考え方もまったく正論だが、じゃあその正論が好きかと言うとそうでもない。

そんなふうに考えていると、いま自分がこうやって書いている文章が一番自分にとって世の中に必要ないものの一種なんじゃないかと思えてくる。違いは、僕自身が書いた文章だということだけだ。自分が好きだからこんなことを続けられるのだと思うが、まぁ、いつも思うことではあるけど、いいかげんにやめにしたい。いまさらやめられるわけもないし、やめないけど。