甘えと言うよりは考えなしか
もっともらしいことを言い出したら、それは僕の甘えだと思いました。
でもこれは甘えじゃなかったのかもしれません。
ただ僕は、昔も今も考えなしなだけなんです。
もちろん、考えてどうにかなるようなものではない。
考えてやっとまともでいられる人、考え続けてもダメになってしまう人、そうなるしかならなかった人、いろいろです。
僕は勇気がなかったのでしょうか。
勇気を出さなかったから、ここまで引きずってきたのでしょうか。
僕は僕の時間という抗えないものに、やはり流されてきたのだとしか言いようがない。
しかし、もちろんそれが今まで甘えと思っていたものであり、考えることをしない自分なのだと思う。
僕自身がなにを望んでいるかは分かりきっていたのだと思います。
それは夢でも希望でも死でもないのです。
また、これは言葉の言い換えに過ぎない。
僕にとって言葉のほとんどは置き換え可能なのでしょう。
何度も言うようですが、僕に確固たる望みなんてない。
それがないからこそ僕は今までまともにやれてきたんです。そして苦しんできたんです。喜んできたんです。
僕はきっと支配されています。確固たる望みを持たないのだと思わせる何か。
今僕はいくら言葉を選んでもいつか書いた文章しか作ることができません。
そしてこれから先もそうなのでしょう。
もちろん客観的に見れば僕は同じ文章を書いているわけではない。似ていても同じ文章は書いていない。
でもどれも意味は同じです。
僕が追っていて、そして書いているのは世間じゃないからです。客観じゃないからです。
僕が追っているのはいつまでも僕です。
たとえて言えば僕という湖の、その波です。
僕に落ちた雫が波紋を作るさまを僕は文章にし続けてきたのです。
僕は夢を持っている。希望がある。
それらがかなわないという絶望がある。
確固たる思いがある。
僕は生きているのだという単純なこと。波紋の広がるその一点。僕はその周りで規則正しく揺れる波だけを見てきた。湖畔で複雑さを増すそれを横目で見ては目をそらしてきた。
ここにとどまり続ける限り終りはない。この文章に終りはない。ここは始まりでも終りでもなく、途中でもない。
一瞬が過ぎる。そしてまた一瞬が過ぎる。
僕はその感じ方を書かない。その感じ方を肯定しないし否定しない。
すべてが違う。
言葉をつなぎ続けます。
これは本当にくだらないことだと言い続ける自分を止めているわけではないです。ただ今は休んでいるのでしょう。徹夜だから。
これは本当にくだらないことです。客観的に見れば文章にする価値がまったくありません。もちろん僕が客観を判断することはできません。
僕は何かを言うために文章を書くのではないということです。
また、僕は日々の憂いを文章に表したいのです。みんなに訴えたい。
僕はきっといつまでもここに立ち止まり続ける。続けたい。続けたくない。
嫌だと言っても時は進み、望むと言っても僕は変わることができない。
僕の中には具体的で確実な思いがある。
それを僕は言葉にすることができません。ということは、それはないということでしょうか。それとも、自分で言葉に表せないことは、存在しないものなのでしょうか。
もうこれは書く必要のないことです。
書く必要があることは他にたくさんある。
学ぶべきもの、学びたいものはいくらでもあります。
それでも僕がこのことにこだわる理由は何でしょうか。僕はそれを言葉にすることができるのでしょうか。
言葉にしないことで表現することができるかもしれない。言葉を吐き続けることで表現できるかもしれない。
どっちにしろ同じ事なのかもしれません。
でもこれは、やっぱり僕自身否定することはてきなくて、つまりそここそが僕の希望・勇気なのだろうけど……。
本当にくだらないことです。
僕はただ寝不足だと言いたいだけです。