さて、自分を慰めるか

行き詰まっている感じがするのは、僕が自ら正しいと思った道を歩いてないからだろうか。カッコつけて言うなら、そういうのもありだろうけど。でも、僕のこれはきっと、ただの体調の変化でしかない。

僕がしようと決めたことは、やはり僕の思いから来たものではないと思うのだ。いや、まさしくこれが思い・心だと言うならば、この儚さにこそ嘆くべきである。

始めなければ終わることもない。創作活動を始めたのは、いったいいつのことなのだろう。終わるのはいつになるのだろう。

僕はじゃあ僕が全面的に信用できて信頼できて誠実な人間に自分がなれると思っているのだろうか。思い上がっているのではないか。結局のところ僕は昔から良い子ちゃんなだけなのだ。良い子ちゃんであることと、誠実さには関係がない。違う。たんに問題を回避するために良い子であろうとしただけだ。だから誠実でないとも言える。

自分の誠実さを信じられなくては生きていけないのだろうか。自分に誠実に生きることでしか、安らぎは得られないのだろうか。きっと、ある程度はそうなのかもしれないと思う。そうだ、僕はやっぱり信じているのだろう。そのことを。

だからこそ、僕はそのことについて悩む。自身の怠惰さに苛立つ。何も語れないでいる自分が嫌になる。

慰める。人間は完璧ではありえないと。完璧な文章など(以下略)と。それは儚い慰めか。それを慰めと捉えて安住しているからこその怠惰なのだと、言葉の上では自分を責めることができるのに、なんら結果に結びつくことがない。

僕は自分を認めてくれる誰かが欲しいのだろうか。そんなことばかり最近考えるようになった。家族だったり友達だったり、僕を見ていてくれる人はたくさんいる。その人たちに対する感謝が足りないのかもしれないね。だから僕はこうやって生活していて平気でいられる。焦らないで済んでいる。それは望んだことなのかもしれない。

自分に厳しくすることができないと、ただそれだけのことなのかもしれない。人に厳しくされたことがない。だから、なのか。それとも、他の要因か。

このとおり、僕は夜更かしを苦手とする限り、自意識を止めることはできない。自律神経が失調している限り。まともなバランス感覚を持たない限り。

だから、そう、やっぱり僕は慰めるしかないんじゃないかと結論する。どこの誰が、完璧に生きているのかと。どこの誰が、愛を踏みにじらずに生きているのかと。どこの誰が、命を犠牲にせずに生きているのかと。

僕のこの問題意識は、僕の届く範囲にある掴みやすい話題だっていう、ただそれだけのことじゃないか。騒ぎやすいニュースに飛びつくことと、なんら変わるところのないことじゃないか。

自分では、この自意識を止めることはできない。誰かに止めてもらうか、自然に消滅するかだ。きっと僕が恐れているのは、誰かに止められることだ。自然に消えると思えるまでは、まだ年齢が足りないのだ。

誰かに何とかしてくれと頼んでいるわけではない。自分で何とかしたいと思っているわけでもない。ただきっと気分が優れないだけなんだ。自分の中に整理された自分があるとは、到底思えないから。

だからこうやって自分を慰めてバランスを取ろうとする。今自分が立っている位置を中心にしてそれをするから、僕はいつまで経っても偏ったままなのかもしれないけど。

解消したい。すべてが埋め尽くされる光が見たい。それを見る資格もセンスも自分にはないという、簡単な悲観が、やっぱり僕を怠惰にする。

光はきっと光の中にある。光の中に行くことを放棄した僕には、近寄ることができない。それを諦めてないから、眼が痛い。それをいつか追えるのではないかと淡い期待をしている。夢など自分にはないと言い続ける。夢など関係なくいまこの状況すら苦しいと嘆きつづける。ここから飛び出すための勇気は持てず。僕にはせいぜいこうやって、前の言葉とつながる言葉を選んで行く。


誰が個人の怠惰を許すのだろう。自分以外の誰が。ならば、許す人間はいないだろう。僕は僕を許せない。今この瞬間は許せない。死ねばいいとさえ思う。

僕以外に許せる人間はいない。ということは、僕が許せばすべては解決する。もちろん、僕は自分を許し続けている自分を許せないでいるのだ。だったら誰も許してはくれない。誰かの許しの言葉だって、もちろん意味がない。行き止まりだ。

だから自由だ。はてしなく陳腐だ。