人の文章を読んで、自分はもう何も書けないなと思うとき

病気で死ぬ女の子の話を書くことなど、僕には到底できることではないのだ。それでも僕がそれを書けるのは、そのことについて何ら思い入れがないからだ。持っている病気のつらさの経験と言えば、インフルエンザになったときの高熱と、原因不明のめまいくらいだから。

書けることも書きたいことも無いと何度も文章にしてきた。もっと言えば、すべての文章に僕は多かれ少なかれその想いを込めてきた。非現実的に思えるかもしれないが、人の消えない根本的な想いや悩みというのは、その人のどんな行動にも影響を与えてしまうんじゃないかと思う。とか適当なことを言ってみる。

レポートにも論文にも、さかのぼって読書感想文にも、僕は書くことが無いのだということを書いてきた。それだけ純粋に僕は文字を繋げることが好きで、それ以上の情熱……というか、興味はないのだ。そんなことを改めて思う。

僕はそうやってごまかして書き続けようとしているのかもしれない。本当は書きたい思いがあるのかもしれない。逆にそんなことを思ったりもする。絵も同様に。

とはいえ、ひと月社会人として仕事をしてみた感想としては……僕は単純な繰り返しの作業が苦痛ではないのだという確信を持てたということだ。だからこそ僕はとりとめもなく文章を書くことが好きで、女の子を書くことが好きなのだ。

頭の容量が少ないんじゃないかと思う。単純な作業で僕の頭は支配されて、それだけで退屈を紛らわすことができる。細切れな思考はループし続け、煩雑なある手順でまた1に戻る。これは、おそらくは僕の今までの人生であり、生活のサイクルなのだろう。


問題はない。今までどおりだ。今気づいたと思ったことも、もう何度も書いているという自覚がある。僕は単純作業くらいしかできず、創作意欲があると思い込んでいて、見栄を張っていて、人を不快にし、

そして誰にも届かない文章を書き続ける。