いつか気づいたときにするよ

そう、僕はカセットテープに入ったAIRサウンドトラックを聴いていた。カセットテープ、時代を感じさせるアイテムだ。

僕はその頃自分が何をしていたのかよく覚えていない。たぶん、今と同じような感じだったと思う。僕はいつだって、振り返れば今日と同じ昨日があると思っている。それの何が悪いと言うのだろう。いや、こんな反発心なんてどうだっていいことなのだ。

とにかく僕はその頃もきっと絵を描いていた。今と同じように、絵を描かずに描いていた。その頃だって僕は絵を仕事にしたいなんて思っていなかった。そうなったらどれだけ素敵だろうとは思ったけど、強い夢ではなかった。

強く夢をみるようになるのは、閉塞感を強く感じてからなんじゃないかとひらめいてみる。疲れると余裕がなくなって、自暴自棄になる。だけど完全に夢を見れなくなったわけでもないから、そんな自暴自棄で夢へと突進してしまう。それが悪いことだとは思わない。というか、誰かが何かをするのを悪いとか悪くないとか、あんまり文章では書けない。なんとなく書きたくないのだ。

すごく切なくなって昔が恋しくなって、でもあの頃も僕は、こんな感じだったのだと安心する。このまま、何時まで経っても安心していられればいいなって思う。今日と同じ昨日そして過去。そして未来。そんなふうにして生きることはできないのだろうか。そんなふうに当たり前に生きることはできない、なんてことを楽天的で苦労を知らない若者に思わせるくらい、この社会は歪んでいるのだ。嘆かわしいことです。

僕が何度も書いた文章……僕は自分を慰めるために文章を書いている。その慰めがどのようなものなのかってことも考えない。ただ慰めである、と言い続けている。そこにはいったい、どういう意味があるんだろう。

とにかく文章を書いていると落ち着く、ことがある。それはとくに夜中、深夜のことだ。というより、あまり昼間に文章を書かない。僕は昼間に好きな文章を書きたい。そういう仕事がしたい。だけど文章を書く仕事っていうのを僕は少し嫌っている。僕は気ままに、やっぱり、こうやって適当に言葉を繋げたいんだろうから。

何か、とか、つまり、とか、そういう言葉から文章を作ろうとすることが多い。とにかく、なんていうのは、もうすでに二つの段落の頭に使用されている。そう、とか、さて、とかも好きだ。それは何でなのかと考えてみれば、つまり、これは僕の思考の延長上の漏れでた一部だから、そこにはやはり前提条件があって、その前提を踏まえて、「さて」と言うわけなのだ。

もちろん、僕は頭の中でも同じように、とりとめなく文章を作っているから、そこに明確な始まりなんてない。終わるところもない。


なんだかとっても悲しい。いつものことだ。孤独だからとかでは、ないと思う。とにかく僕は自分が何もできないってことがもやもやしてしまってダメだ。何かをしたいならすればいいんだ。でも日常的に怠け者してると、一番簡単で一番単純な「行動する」ってことができなくなる。とにかく行動したくないという思いに囚われてしまう。それがどれくらい、何もしないでいることより楽かということを忘れてしまう。今だって忘れているし、というか、本気でそう思ったことなんて、あるのかしら、分からない。

僕はやっぱり何もしないで、どこか静かなところに暮らして、何も心配せずにぼんやりとしていたいのだ。一日数行だけ小説を書いて満足して、そんなふうに生きていたい。思い煩いたくない。


このあいだ会社の階段を上っていて考えたことがある。僕は自分が考えうるすべてのものに「ない」を付けているんじゃないかと。つまりすべてを否定しているか、否定を前提として語っているのではないか。

それならば僕は、きっとその否定の言葉も同様に否定しているはずだ。だから僕は楽観的でいられるのだろう。そういう結論だ。


久しぶりに文章を書いてみている。本当は小説が書きたい。小説なら、あとから読んで楽しめるからだ。こういう何が言いたいのか自分でもよく分からない文章は、あとから読んでもおもしろくない。それはべつにこういう文章を否定しているわけではなくって、ただたんに、このような文章をだいたいどの年代の僕でも書けるから、わざわざ昔のものを持ち出す必要がないってことだ。もちろんその年代ごとに違いがあって、その点はおもしろいんだけど、それだったらちゃんと小説として読めた方が小説的な楽しさがプラスされてもっと楽しめる。こういう文章は、まぁつまらないってこともないけど、書いた時のことが思い出せてしまうから、新鮮味がない。ようは上でも書いたとおり、いつのときの僕も僕なんだっていう切なさを感じてしまうのだ。

もちろん、そう、僕はまだ若いから、これからまったく違う文章を書けるようになるかもしれない。だけど僕は残念ながら、まったく違う文章を書きたいとは思っていない。トレーニングもしていない。先日、作文や文章を書くということに関する本を二冊買ったのだけど、それは以前にも読んだことのある本で、そんなことからもやっぱり僕は自分の文章を変えたいなんてことはまったく考えていないのだってことが分かる。

だいたいもう文章ならこうやって簡単に書けるじゃないか。この上何をどうしようって言うんだ。論理的な文章が書きたいと強く思うこともない。

人を楽しませるような文章を書きたいというのなら、それはもう文章作法とはまた別の問題だろうって思う。こういう言葉は嫌いだけど、言葉というのは道具なのであって、その道具をいくら磨き上げても、使う側の使い方が劇的に変化するわけではないのだ。もちろん、道具を綺麗にする事は大事だし、そこには魂が宿るのだ、という信仰も持っているから、やっぱりXXは道具にすぎないっていう言葉は嫌いなんだけど。


文章を書くことでいろいろと刺激されて、それが安心感につながるのだと思う。いろいろな情報や情景がぼんやりと頭の中に浮かんで、そのまた印象を文章にしている。自分は考えているんだなって感じがしていいのだ。まぁこんなところでまとまったので、今日はもう寝ようと思う。そういえばしばらく前から、このブログの投稿記事に投稿日時を入れるようにしている。参考にするとよいと思う。今は午前四時だ。こういう時間にならないと僕は文章を書くことができない。さっきから文章をどうしても武神ょ雨と打ってしまう。眠いんだ。

ブログのことについて言うと、最近ついった今日の僕とかいうふざけたタイトルのtwitterログしかねぇじゃねぇかってご意見もあると思う。だけど僕はこのブログはこれでいいと思う。ブックマークした記事も同時に紹介できるしね。なんだっていいんだ、もうなんだっていい。


でもやっぱり僕はちゃんとゲームを作ったり小説を書いたりしたいんだ。