壁に話しかける

どっかのブログで、エントリ書いても見られてないってのはつらいってこと言ってた。このブログは最初から人に読ませることをあまり考えていないのでそのようなことはありません。

もっと言うと、こんなところでもたまに見る人がいるかもしれないというのが素敵に思える。それがたとえばキーワードから飛んできて流し読みして一瞬で戻るみたいなものでも。

絵なんかでいうともっと分かりやすい。文章は意味を持たせるためとか、言いたいことを表現するためにいくらか量を書いて、かつ読んでもらわなくちゃいけない。だけど絵なら普通一瞬見たらそれで終わりだ。気に入った絵を印刷して部屋に飾るってこともあるけど、普通は一瞬のこと。

だから絵を検索してなんとなくクリックしてしまった僕の絵というちっぽけなものでも、見た人に「絵を一枚見る」という行動を瞬時にさせることができる。絵は強い。

そんなわけで……なんの話だっけ? 読まれてなくて云々って話か。誰か読んでるのかなぁ。読んでほしくもないけれど。最近はなんだか羞恥心みたいなものが出てきて昔みたいにバカなことを長く書けなくなってる。短くならご覧のとおり書けるんだけど。

人がたくさんいるってことがうまく頭の中で理解できない。憂鬱なハルヒさんが幼少のころたくさんの人を見て……って話があったけど、僕にはいまいち多さが認識できないし、ショックを受けるほど周囲の人間の量も測れていない。それにみんながみんなそれを理解できているとも思えない。掲示板なんて見てるとそう思う。

あたかも何人かの主張があり、それに反論する何人かの主張があり、また別の何人かの主張がある……そんなふうに感じている人が何人かいるのではないかと思えてならない。そう思ってればいいじゃない、それで何が問題なのってことになる。不自然さがあるように思えるから引っかかるんだと思う。

僕みたいな人間がいっぱいいるわけではない。かつ、僕と同じ人間というものがいっぱいいることでここが成り立っている。不思議な感覚だし、どの程度の人がどのように感じているのか、どれだけ知ればいいのだろうと疑問に思う。

そのための情報学なんだけど、結局分からなかったしこれからも分からないと思う。効果的な集団の見方というものも僕は理解できないだろう。それに理解したくない。人間がいっぱいいることを考えたくない。人なんてこんなにいなければいいのにね。

いっぱいいるというのは個人にとって有利に働くこともあるかもしれないとは思う。逆もあるけど。人脈という言葉があるように、人と人をつなげることはそれだけで自身に益をもたらすこともあるわけだ。まぁ、そういうのが嫌いなんだけどね俺は。

そういう人と人とのつながりがうらやましく、かつ自分で構築できない人に優しく声をかけることで商売になったり詐欺になったりする。

商売も詐欺も僕は嫌い。商売が嫌いだって言うやつも嫌い。お金が関わると人は汚くなるって言う純粋な人たち。食べていけるだけでいいっていう人たち。そして結局、戦わなくちゃ生きていけないクソめんどうな世の中。みんな嫌いだなぁ。


なんてことを今日は壁に話しかけるのだった。最近は生きるのが嫌って感じよりめんどくさくなってきたよ。革命でもおきて本当に面倒なことにならないかなぁ。そしたらさっさとあきらめて女の子100人くらいナンパしに行くのに。

あきらめの悪い自分も嫌い。