傲慢だ

自分はなんて傲慢なんだろうって思う。その一番の理由は、自分は傲慢だと自覚しているなんてことをこうやって文章にしているってことだ。これは、本当にひどいことだと思う。

いろんなことに興味がないフリをするのも偽善的だ。自分を偽って生きていると感じる。そのくせ自分の「何もしたくない」という欲望には素直で寝てばかりいる。

そういう自分の性質について、心と身体が普段から緊張している。そのことをまた僕は慰めにしている。そのような慰めを取っ払い、ただ目の前のことを一生懸命やることで人生は開けるのだということを信じている。信じていて実行しない。また、そのようなことを本当には信じていない。

何より僕の書く文章は本当につまらないと思う。どうしてこんなものを僕はおもしろいと思ってかけるのか。そんなに自分が好きなのかと自分を責めたい。その責めにさえ、やはり感じることはないし、それどころか慰めになってる。またも。


自分の喋ることも人が喋っていることも意味のあることだと思っていない。生きるということに関わることがもっとも人にとって意味があると思っていながら、それが重要ではなければいいと願っている。

もし甘えているのだと他人に言われたなら、きっと即座に納得してしまうであろう。そんな自分を考えると、すごく気持ち悪いと感じる。だからと言って自分自身に甘えることを止めろと言うことはできない。もちろん納得だってしないだろうから。

他人に甘えているのだと言われたときに、僕は死なずにいられるのかというのが最近の心配事だ。と言っても、甘えるななんて説教してくれるような甘い大人は近頃は稀だろうなとも思う。さて……。

経済的な社会の仕組みと言うものがどうも理解できない。人はどれほどの収入があれば生きていかれるのかしら。それは本当に謎だ。生活とお金の問題について漠然としすぎている。また、そのための情報を見てもピンとこない。と言っても、この手の問題というのはだいたい自分が中に入れば疑問にすら思わないはずなんだけど。


自分がどう思われたいのか分からない。自分がどう生きたいのか分からない。それに思われたい自分を夢想してみたところでそれがかなうというものでもないし、自分の生き方を貫けるとも思えない。こういう考え方も僕は傲慢だと思わないでもない。人に対して言う分には、まぁ周りにとって傲慢だと思われるかもしれないけど、べつにそれほどとは思わない。でも自分に対してそのように考える続けて生きているのは、どうも気持ちの悪いことに思える。

なにを言っても考えても、大事だと思いたくない。大事なものを作ってそのために生きるということに憧れてる。でも憧れているものを本当にはしたくない。というより、憧れているものを本当にしたいと思っている人のことが信じられない。僕が臆病で自信のない人間だからだろうか。どっちにしろ、僕には憧れがないんだ。憧れを持つと言うことに憧れているわけで……。


うん。本当につまらない文章だ。自分でおもしろいと思って書いているのがつまらなさに拍車をかけているな。漫才の途中に自分たちの考えたネタで笑い出す漫才師のようだね。おう、なんて陳腐なたとえ。冴え渡っている、今の僕は。