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「全然心がこもってない」って書き込みがあった。僕もよく言われる。

やっていることとか、発言とかに心がこもっていないというか、なに考えているか分からないって言われる人、けっこういると思う。でなかったら、世にある中二病物語に読者などつかないだろうし。

簡単に言えばうまくやれない奴がそういうふうになってしまうんだよね。元から純粋に喜べる奴は何の心配もない。自分の感情や他人の感情について何か考えてしまう人というのは、けっこう難しい。……難しく考えてしまうなんて言ってしまうと、正直自分のこともあるので言わないけど、とにかく難しいことがあるのだ。

それで、その難しいところをきちんと合せられるのが普通の人だと思う。合せられないのがダメな人ね。予想としては、このダメなところと普通なところをいったりきたりするのが人間なんじゃないかと思うんだけど……いや、言いたいことはこんなことじゃないんだが。


心がこもっていない。僕はそんなふうに言われてもとくに気にしない。実際に本気になって何かしていることが少ないので、心がこもっていないと言われるのはもっともな話。そういう意味では保険をかけているのかもしれない。

それでも本当に心からやったことについてそのように言われたら、きっと僕だって悲しくなる。でも少しだけ思うのだけど、逆に、心ある人間だなんて思われるなんてちょっと無理だ。

だいたい他人の言葉や態度に心があったかなかったかなんて本当には分からない。だからこそ僕たちは他人の何気ない一言に傷ついてしまうのだし、そのように歌われるのだ。

僕のための歌なんてない。だから僕は歌を歌うのであって、心無いとかあるとか、基本的にはどうでもいい。そんなふうに思う。

僕が一番覚えているのは、成人式のときにやった中学の同窓会だ。つい数年前の話。担任の先生は当時30歳くらいの先生だった。だから中学から考えて30ちょっとという計算だと思う。久しぶりに見た先生は確かに、あのころよりは若さを失っていたけど、とりあえず僕は会って一番に「あいかわらずおきれいですね」とお世辞を言ったのだ。

酔っていたし、べつにそれほどお世辞と言うわけでもなかったんだけど、まったく心がこもっていないと指摘された。

僕はずっと先生に、かわらず綺麗だと言いたかった。当時から、きついところはあるけど美人先生だったし、僕が文章を書くきっかけもその先生だったような気もするし。

喜んでくれるかどうかは分からない。歳をとった自分を嫌になるかもしれない。それでも僕は本気と冗談半々で今でも綺麗だと言いたかった。


僕はなんて言われたろう。確か大人っぽくなったと言われたような気がする。いや、そんな好意的な発言ではなかったような気もするけど……。なんにしても僕は忘れてしまった。

忘れてしまうから他人の言葉なんてどうでもいいというつもりはないけど、やっぱり人の言葉をいつまでも気にしているというのはバランスが崩れているのだろう。崩れているからなんなのだ、ということが言いたい。それを最近はよく考える。

崩れて困るのは健康だ。これはできるだけ普通を目指したほうがいい。だけど心の安定なんぞ何の役にたつというのだ。それでおもしろい話が書けるのか。違うね。歪んでいたほうがおもしろいものがかける。歪んでいない心が書いた心ある話なんてクソみたいなもんだ。

僕はそんなばかげたことを心のそこで本気で思ってる。どうしようもなく歪んでいる。だから僕はナルシストなのだと思う。自分のこの心の歪みは自分の強みなのだと本当に信じている。そんな自分がこの世からいなくなればいいと本当に毎日のように思っている。死んだほうがいい。


でも事実として心が不安定になると身体に影響があるので、心のバランスもきちんと管理しないといけないと思う。管理できない人間が、あるいは環境が、ダメな人間を増やす。難しい問題です、本当に、難しい問題ですよね、これは。

偉そうなこといえる人間なんてこの世にはいないはずなのに、偉そうにしている人間はいくらでもいる。あいつらは偉そうにしているなんて言っている僕こそがまったく偉そうであり、そんなふうに思う自分をよく分かっている人間だと偉そうに言う。

これは言葉遊びだろうか。違うんじゃないかと僕は反論したい。だいたい、そもそも、言葉遊びのなにがいけないんだってのもある。言葉で遊んでなにが悪いのさ。コミュニケーションに齟齬が発生するかもしれない? そんなことは知ったことではないのだ。

そもそも、相互に理解を得ようというその考えが壊れてしまっているのだ。そこが壊れている人間に言葉遊びはやめろとか言ってもしかたのないことだ。

どっちにしたってダメな奴はダメになっていくじゃないか。おまえは優しさから僕に語りかけているのか。そうとは僕には思えない。まだ引き返せると、まともになれると思ってるんじゃないか。僕にそんなまともなところなんてない。勘違いしてもらっちゃ困る。


というようなことを長々と書いていると心が安定してくる。これが文章を書くということのいいところだと思うね。

心がこもっている、またはこもっていないというのは、ようは心を持っているように振舞っているかどうかのほうが大部分の人にとっては問題なのだと思う。そういう人のほうが多い。だからみんな心がこもっているかこもっていないかを気にするのだ。いいね、今の俺は冴えている。

一番簡単なのは自分に心なんてないのだと思うことだね。世の中を見回しても(僕の世の中はほとんど物語の中にあるのだけど)、この方法は一番簡単でオススメだ。

二番は心を持っているように振舞うこと。三番は悩んで苦しんで、その末に恋愛をして結婚をして、そういえば俺はあのころ自分の心ついてずいぶんと悩んでいたものだ、などと回想することだ。三番って書いておいて、一番普通のパターンだな。

おもしろいね人間て奴は。色んな人生があるのにみんな最後には死ぬのだから。きっと考え方が逆なんだろう。人生があって死ぬのではなく、死ぬから人生があるのだ。すごい、今の僕は本当に冴えている。最高だ。ハッピーだ。


クソ我慢して書く文章ではないなと、読み返しもしないで思うのだった。おわり。