それはそれで否定するものでもないが

人への興味が薄いという自分の性格に興味を持ち始めているわけだけど、そんな僕のブログでもいくらかの人は読んでくれているようで、それがどうも理解できないというか、申し訳ないというか。

そういう、人への興味ということに関して僕は無自覚だったわけですが(そうでもないけど)、そういうものについて考えないから僕は作り手として成長できないのだと思いました。人が何に興味を持っているのかということですか。

しかしそうは言ってもそれを僕は否定することはできないわけですね。それを否定することができるならば、僕はまさしくクリエイターとして生きていこうと志せる。それができないからこそ、僕はこうやって素人を続けているわけです。センスがないというのも、もちろんあるんだけど。

これは僕が始めたことだからと、否定したくない気持ちがある。否定しなければ僕にはこれ以上の成長はないのではないか。そう冷静になれば思い至るのです。でも心には抵抗が残る。それにその抵抗こそが僕に物を作らせる動機なのだとも思うのです。

伝えたいことが何もない。やりたいことを見つけられない。できるならば何もしないで生きていたい。それがかなわないから僕は目的のない創作を続けているのかもしれません。でも、人は最初から目的を持ってものを作るわけじゃないですよね。人によるとは思いますけど。

幼少のころを考えると、作るのが楽しいからっていうよりも、作ること以外のものにあまり価値を感じなかったのかもしれません。あるものがある、という分野の勉強がどうしても身に付かないのはそのせいかもしれません。地理とか歴史とか、社会科ですね。でも単純に物を作るっていう科目は授業にはほとんどないので、もう少し進路を考えたほうがよかったかもしれませんね。しかしどちらにしろ、というか、どこにいようと何を学ぼうと、あるものはあるのであって、作られるものは作られるということを知ることができたのは、文系を貫いてきたからこそだったのかもしれません。どちらが幸せかは分からないですけど。

今の僕にとってつまらないこととは気に食わないことだけになりました。退屈な文章を読むことは嫌いじゃないですが、退屈な文章にしてしまった著者のことを思うともう読めなくなったりします。けっこう日常で気に障ることが多いです。人の個人的な意見とかもほとんどが苦手です。肯定でも否定でも変わらず興ざめします。もちろん自分自身こんなことを書いていることがもっとも興のさめることです。


それで、もう一度戻るのですが、それを否定したくないんです。こういうのがつまり、若いやつはものを知らないくせに根拠のない自信だけがあるって状態なんでしょう。だけどじゃあどうしたらいいかってことなんですが、たとえば大人の話を真摯に受け止めるということを心がければいいのかというと、やはりそれは無理なわけですね。僕は常日頃から大人の話を真摯に受け止めていると思っているのですけど、大人の話が気に食わなければやっぱり聴かれないわけですよ。もうどうしようもなく。あなたは目を覚まさなくちゃいけない、そういう言葉にはどうしても、反吐が出ると心の中で言わずにはいられない。どうしても。

僕はもう人の言葉で目を覚ますことはできないんじゃないかと思うんです。自分の言葉でも無理なんじゃないか。つらい人生や、つらい生活が僕を夢からさましてくれるだろうか。分からないけど……今までの経験から言えば、神経を病んで終りなんじゃないかと思わずにはいられません。

僕はどうしようもなく凝り固まっているようなのです。たいした知識も持たぬままに。由々しき問題ですね。

こうやって自覚しているということは希望なのかもしれないと思うこともあります。でもやっぱり、もちろんこれはすべて見当はずれなんじゃないかということもあるし、なんにしても、はっきりとしたことなんて言えない。はっきりとしたことなんて言えないということばかり口にしているから、僕の中には確固たるものがひとつもないのだと思う。


もう少し文章を考えて書きましょう。