どうしてスピリチュアル詐欺は許せず、ゴーストの囁きは許せるのか

僕の場合、フィクションに対する見方と、現実に対する見方が違うからだと思う。どういうふうに違うのかは分からないけど。

例えばの話、ノンフィクションは嘘を付いてはいけないのかということがある。そう言うと大げさなので、「本当の話」で語られる話で嘘を付いてはいけないのかと言い換えてみる。いやしかし、そうなるとじゃあ僕は語られるすべてのスピリチュアルな話を嘘だと思っているのかということになる。そうなるともはや語られるのは僕の信心深さ的なものになるのだけど、べつにいつも通りだから大丈夫でしょう。

霊感の強い友達がいて……。そのように話が始まった場合、僕はもうそいつを殴り倒してしまいたくなる。信じる信じないというのは本当に難しい問題で、それ自体すら信じるか信じないかという問題なのではないかと思ってしまうのだが、きっと考えるということに精通している賢者の人には、適切な問題として何かを考えているのではないかと思う。よく知らないけど。

僕のは多分、フィクションでもないのにどうしてそのような、たとえば霊感なんてものを持ち出すのかということが訝しいという、それだけの幼稚な憤りなのかもしれない。だって世の中には素晴らしいフィクションがたくさんあるじゃないか。何でわざわざ「これは本当に起こった話なんだけど」と言う必要があるのかと。

そんなことより、僕は元々ノンフィクションというものに馴染みがなくて、読んだとしてもノンフィクションとしての読み方をしていないという自信がある。というかこれもまたフィクション・ノンフィクションを比べてのことなんだけど、フィクションをフィクションとして読んでいるのかということすら疑問がある。それはいいとしても、とにかく本当の話と作り話にそれほど差を観じていないのではないかと思う。

テレビのニュース番組がある。そこで誰々が死んだとかいう話は、多くの人にとってまさに他人事です。他人事である現実にあった出来事では感情は動かされない。逆に、感情が動かされる話ならば、他人事でなくなるのか。なくなるのだろう。それがたとえ現実にあった出来事でなくても。

だから上でも言ったとおり、僕は現実に起こった下らない話よりも、誰かが作ったお話の方がおもしろいと、ただそれだけの考えなのだろう。どうだろう。

それで、作り話ならば作り話として楽しめばいいのに、世の中には「本当にあった」と言うことで特別な目で見る人間がいる。それがどうしてもイラっときてしまう。ただのわがままなんだろうけど。

ようは、本当にあったからなんぼのもんじゃいと、エセ関西弁が出るという話なんだけど、どうでしょう。そういうふうに感じる人はいないでしょうか。


何かを語りたいとき、現実の事例によって語ることが僕には誠実には思えない。これは僕の物語を読む姿勢が歪んでいるがために起こったことだと思う。まったく度し難い性格である。

ただ単純な話、どうみても作り話臭い感動話とか持ってこられると怖いので近寄りたくないです。それが作り話であろうと、そうでなかろうとです。やっぱりただのマスコミ嫌いからくる嫌悪なのかもしれません。

本当にあったのだ、それを体験したのだって言う人がいるからって、そのお話の感動というか、完成度というか、そういうものがアップしてしまうなんて、どうも納得がいかない。これは言い換えればヘタレ作り手としての僻みか。


というか自分自身に起こっていることでさえ、ちょっぴり不感症みたいなところが僕にはあるので、それが現実の世界に関して云々言うときによく分からなくことの要因かもしれない。

まわりで人が死んでもピンとこないとか、よくある。頭の中が子供のままってこともありえる。なんせ人付き合いが少ないし、経験値が低いってことかも。それかゲーム脳とか。