ネガティブで行こうと思ったが

思うほど、僕の中にネガティブな感情はないのかもしれないとか思った。後先を考えない無計画さを楽観的な性格と呼ぶのなら僕はそのとおりだから。僕には知識が足りないし、個人的な哲学もない。要するにしっかりしていないのだけど、かと言って好きな方向にふらふらと進めるほどの勇気というか、無鉄砲さもない。

僕自身を考えるとやっぱり「欠けている」という言葉がしっくりくる。これは感傷ではないと思う。たぶん。

足りてないなと思うことが、人を見ていてある。何が足りていないのか、欠けているのか。……それはたんに僕の見ることのできるその人の人格の一部なのかもしれないし、価値観の違いなのかもしれないけど。

一緒にいて誠実さが感じられないと思う人がいる。だけどその理由は、たんに会話中に携帯を広げるとか、そういうことだ。二人きりでいて携帯を開いているからメールでもしているのかと覗いてみると、彼はゲームをしているのだ。二人でいるのに、会話ができる人間が横にいるのに、携帯のゲームをやる人はいるのだ。

とは言え僕だって、家に行くような友人の、その家に行けば、漫画とか音楽とかばっかりで、それほど会話することはない。同じようなことなのだろう。


僕の中にはネガティブさがあるのではなくて、ポジティブさというか、楽しさを感じるような、またそれを表現するようなところが欠けているのだろう。完全に欠けてるとは思わないけど、人によく言われることだからそうなのだろう。

僕はたぶん、人に思われている以上に感動してはいるのだ。でもそれがけっこう何でもないようなところで動いているから、他人には分かりにくいのかも知れない。僕の喜びの多くが個人的な物事から生じるから、表に態度や表情として表れないのだ。

個人的なこと、ネガティブさやポジティブさ、それを僕が守ろうとしているのはなぜだろう。それをすべて共有するべきだとは思えない。しかし僕はたぶん守りすぎている。好きな物事の話でも、それを人と話すと幻滅することがあったりする。自分の感じ方を守りたい。この気持ちは何のためにあるのだろう。


僕は自分を不幸だとも幸福だとも言うことができる。そこで不幸だと言うほうを選ぶのは、たぶん、たぶん、それほど重要な理由があるわけじゃないだろう。僕の世代というか、現代に生きている若者の中にあって、当然に作られる傾向のひとつだ。そういうことを論ずる人にとっては重要なことかもしれないけど、僕個人がどうにか安心に生きるためには、その理由なんてそれほど重要じゃあない。かな。

自分は不幸か、幸福か。あるいは、不当な世間に生きていると感じているのか、自分はありのままに生きているのだと感じているのか。この二つは、……もしかしたらそれほど重要ではないか、あるいは表面的な意味しか持たないのかもしれない。たとえば、幸福を感じている人のそばにいると幸福になれるという言葉があるとする。笑顔が周囲を明るくし、やる気を呼び起こし、本人をさらに幸福にする。しかしそのように言っている人に向かって言うとなれば揚げ足取りになるが、そんなことは状況によるのだ。

逆も同じだ。不幸な顔をしていると周囲も不幸になるのか。それは絶対ではない。言葉として無理があるという以上に、現実的にも。


ビジネス書的に、として言うなら、ポジティブは力を持つだろうと思える。ポジティブな言葉はネガティブな言葉よりも強いように思う。発せられる言葉としてだ。しかし書かれる言葉としては、僕はどちらが強いのか分からない。強いというは、たんに即物的な強さのことで、なんか本質とかそういうことじゃない。

そう、どちらにせよ、よい仕事は能力のある人間が作り出すもの……だと信じているが、まぁ、これはまた別の話か。社長はやはりスゴイと思われないといけないってところはあると思う。いや、それもどうかな。


たぶん、ネガティブさやポジティブさとは関係のないところに僕の問題はある。そう気づくことで、ネガティブさやポジティブさには意味がなくなっていく、はずだ。もちろん僕はそれに気づくことはできない。できないのだ。

僕には言葉を……言葉の上でさえ積み上げることはできない。だから気づくことはできない。築くことができない。何も言い切らない。ただ閉塞感があるということしか言えないし、雲の隙間の光にひとり静かに感動することしかできない。