僕はもう駄目かもしれない

こんなにも無感動に、もはや自分には何かを作る力はないのだと思ったことは、今まで一度としてなかった。なんて嘘を書きたくなってしまいたくなるほど、今の僕というか最近の僕は沈んでいる。もう何もかも嫌だとか、もうとにかく描くのだ作るのだとか、そういう幅の広い自分がいなくなってしまったような感じがする。この感じは大学生中盤あたりからあったような気がする。もしかしたら高校生あたりからあったかも。これこそがつまり僕の恐れていた大人なんだけど、実際の僕は大人と呼ぶにはちょっと童貞だし、そもそもそんなもの恐れていなかった。じゃあ何を恐れていたかというと、こうやって僕は作れないんだってニュートラルに感じている瞬間こそを僕は恐れているような気がしなくもない。ちょっと漠然としすぎて自分でもよく分からない。正直に語ろうとは思うのだけど、おもしろい嘘が書きたくてつまらない文章を埋めるために誠実さを犠牲にしがちだ。おもしろいことをしようとするとつまらなくなるっていう典型的なお笑い勘違い症候群である。

僕はー、えーと、何をしたかったのだっけな。とにかくだ、僕がかっこいいなぁとかきれいだなぁとか思っているものを僕も作りたかったんだと思う。それとも尊敬を集めたかったのか。しかしね、そういう現在ないものについてアレコレ判断しようとするのは間違っている気がしないでもない。チヤホヤされたいだけだろう?っていうのは、それが真実かどうかはチヤホヤされてみなくては分からない。いや、それもどうだろう。

ちがくて、そういうことではなく、僕が書きたいのはつまるところ僕はこれからどうしたらいいのかってことだ。これはもう何度も文章にしてきたような気がするし、片手で数えられる程度しか書いていない気もする。とにかく書いたことがあるという記憶はある。僕は、これから、どうしたらよいのか。僕はこれからどうしたら幸せになれるのか。幸せの定義についてそこで僕は考えない。僕の悪いところはそこにあると思う。僕は宗教的なことや哲学的なことや政治的なことや、つまり難しそうなことを考えるのが本当に億劫だと思ってる。というか、そういうことを考えないでいることはかっこいいことなんじゃないかっていう勘違いもある。そういうことを考えているからかっこいいとかかっこ悪いということはないと思うけど、難しそうなことを言っている人はやっぱりかっこよく見える。僕はかっこよくなりたいから、本当はもっと哲学とか宗教とか政治のことを語るべきだった。中学生くらいから。でも僕はちょっと科学に興味があったけど興味で止まったし、こうやって文章を書いたり絵を描いてみたりすることだって、つまりこれは芸術だけど、それだって中途半端だ。じゃあ語る側ではなくて語りを聞く側としてはどうかというと、それだって持ち前の情報収集能力のなさが僕をただ偶然の視聴者に留めている。もちろん僕は、その偶然に支配された僕自身のメディアへの接し方が嫌いなわけではないのだけど。

僕はこのまま取り留めのない感じで生きていていいのかっていう、言わば青年としての当然の悩みを僕は今真剣に悩んでいるのだった。どう生きればよいのか、これは難しい問題だ。

とにかく、情念を傾けることができる何かを僕は求めているのだ。おお、なんと陳腐なセリフか! しかしどんな人間だって、そう、どんな人間だって情熱を持ってできる仕事を求めているのだ!! 古典っぽく叫んでみた。