どんな女性が好きなのか

女性一般を語ろうとするから語ることができなくなるんですよ。僕は愚かでした。語れることなんていうのはいつだって物事の一面だけ。しかもその一面を思い切り斜めに寝転がりながら見たとき、人は始めて語ることができる。多面的にまっすぐ物事捉えて語れることなんて、この世界には無いのだ。この世界というのはつまり僕の世界なので、その拾い上げた投げるのに手ごろそうな石は捨ててください。やめろ! 振りかぶるな!

僕はナチュラルに差別主義的なところがあるので、あまり口を開かないほうがいいんじゃないかと常々思ってます。笑いを取るためとはいえ、多くの人の心を踏みにじるなんて最低のことですね。人はみんな、人の幸せを願い、奉仕するために生きているのですからね。ヘドが出るんですね。わかりますね。

僕はどんな女が好きなのか。それを考えることは、おそらく通常の男性よりも少ないはずだ。なぜなら僕の女性観というのが仮想的に分割され相対化されているからである。

どういうことかと言うと……二次元の女の子と知り合いすぎてて、もうどんな属性でもいけるんじゃねぇかという勘違い回路があるということです。

たとえば分かりやすく、明るい女の子と暗い女の子、どっちが好きかということを聞かれたら、僕はもうもちろんどっちも好きなわけです。

おそらく現実で女性経験があれば、明るい女性のよい面も悪い面も分かるだろうし、暗い女の子のそれも分かる。でもそれがないので、僕は答えることができないし、どちらも好きだと言うしかない。だって来栖川先輩とマルチのどっちが好きかなんて、決められないものね! もちろん僕は来栖川先輩が好きです!!

要するに僕にとって現実の体験というのはそれほど(こんなくだらない文章内で判断することができないという言い訳にできるほど)、重要なことであるということです。僕にとってフィクションというは現実よりもよっぽど下に置かれていて、僕は日々自身の感じる感動を偽者だと感じて生きているのです。

すっぱい葡萄なんてお話が、モテない話が語られるときに現れます。簡単に説明すると、どうせセックスなんてオナニーよりも気持ちよくないんでしょ? っていう僻みです。

ですが我々はキツネではないので、あんな葡萄はすっぱいのですわ! なんて言わない。うわ、この絵に描いた葡萄マジあの木になってるのより上手そう、ヤバイ、ってことになる。その絵の葡萄がいかにおいしいかという妄想力バトルが、もはや現実の葡萄を取ろうという現実の問題よりもよっぽど楽しくなる。そう、楽しすぎるのだ。

それがもう楽しすぎるから、別に現実のおいしそうな葡萄に対しても、あれは確かにおいしそうだって寛大な気持ちになる。あの現実の葡萄、きっと食べたら、この絵や文章にさんざ書いたおいしい葡萄(もちろんおいしいだけじゃなく、その感動を増すために逆にすっぱくしたり、苦くしたり、腐らせたりまでしているのだが)では得られない快楽が得られるだろう。それはきっとそうなのだ。

そのような寛大な気持ちが、僕をますます異性から遠ざけている。女性はみんなすばらしく、かわいらしく、それぞれの魅力的な人生を歩んでいる。よいことだ、よいことだ。


たとえば僕が今彼女を作ろうと思ったら(早急に)、街へ出てナンパしなくちゃいけない。そのとき、きっと僕は嫌な思いをいっぱいするだろう。緊張するし、笑われることだってあるだろう。でもそれを乗り越えれば、話を聞いてくれる親切な女性や、もしかしたらデートしてくれる女性もいるかもしれない。そしてその親切心とか、デートのワクワクを僕は本当に信じている。それを信じているからこそ女性が好きで、恋愛を題材にしたフィクションを好むのだ。

これはただの優先順位の問題でしかなくて、二次元が好きだから三次元が嫌いというのではない。夢が好きだから現が嫌いというのではない。だって現実の女性を本当に憎んでいたら、お話の中に女性が出てきても僕は嫌な気分になる。二次元にしか救いがないと思っていたら、お話なんておもしろくもない。僕たちはいつか救われるのだと思っているからこそ、お話の登場人物が救われたときに感動する。

ちょっと筆が滑ったので嘘くさいことを書いていますけど、とにかく僕は現実の女性が好きなんです。それで、かつ二次元も好きで、ワクワク感とか得たいと思ったら手軽な二次元に傾く。ただそれだけのことです。

現実に触れすぎて、そのワクワク感が信じられなくなるのが怖いというのも、僕の現実への臆病の原因にはなっていると思いますが、まぁ微々たるものでしょう。


そのような言葉を連ねてモテないという現実から目をそらしているのだろう、という意見もあるだろうと思います。しかし我々は個人個人で一匹のキツネであり、葡萄を取ろうともっと努力するか、それとも愚痴を言って諦めるか、それとも絵を描いて楽しむかというのは、まったく個人的なことなんです。だから一般化することはできない、はず。

お洒落して普通に会話すれば彼女なんてできるというのに当てはまるのは、お洒落して普通に会話して彼女ができる人に当てはまることで、それ以外の人間には当てはまらない。望んでいることでもない、かもしれない。


一番の問題は、生まれて此の方彼女がいないとか、童貞だとかいうことで騒ぎ立てる一部の人間と、そのことで微かにでも軽蔑を向けるいくらかの人間と、そういうことに対してコンプレックスを持ついくらかの我々だ。ただしその差別的状況や被害妄想が新たなオナニーのネタになっていることを僕は否定できない。Mだから。

だからレイプゲームがどうとかと言う議論には繋げられないのですが、僕にとっての楽しみというのが、やっぱり絵に描いた葡萄で、木になる現実の葡萄を食べている鳥たちの蔑みの視線などもまた、その絵を楽しませるものであるということです。

もちろん、そこまで完璧に割り切ってはいないのですが、そのように僕が言える書けるということは、つまりそのことについての価値を恐ろしく下げているということです。だから僕は差別主義者なのだ。差別主義者って言いたいだけだからほっといてくれたまえ。その石を置きなさい。


まとめ。

僕は暗い女性が好きで、個々の属性とかは特に気にならないタイプです。