無題

何か書きたいと思うのは、人の書いたものを読んだとき。それもさほどおもしろくなくてよくて、どっちかと言えば劣等感とか優越感とか、そういうつまんねぇもんを刺激される文章がよい。

こんなふうにして適当に文章を書いていても、時間は過ぎていってしまう。一日がこんなに短く感じるのは、生まれて初めてのことだ。昼寝の時間が嫌いだった。眠れないから。

僕は今日も書いていたプログラムの話がしたい。だけど書けることがない。昔書いたコードをコピペしてきて、それがあまりに長ったらしいから短くしようと思って書いたらビックリするくらい短くなったっていうのが、今日一番嬉しかったこと。もちろんそれは嵌っていた問題を横に置いて手慰みにはじめた時間つぶしで、まったく嬉しいことなんかじゃない。それに、コードをコピーして何回も使うなんて馬鹿げているのだ。分かってはいるけど、じゃあどこにどの程度の機能を持たせて切り離しておけばいいかが分からない。

僕は帰り道で考える。何度も試すことが僕にとっての近道なのだと。考えている暇があったら一行でも多く書くのだと。試した回数だけ正しい道が見えてくるのだと。

そしてそれにはなにが必要なのか。それは体力だ。集中力だ。僕は今日、半日くらいはビルドの待ち時間と眠気に時間を取られた。それでも僕は疲れている。何もしていないのに疲れている。

いつも思う。これは僕の望んだような、好都合な展開だと。とにかく黙々と好きなように勉強できるのだから。もちろん、それが良いことなのかは分からない。それで僕は望んでいた位置を保っている。ずっとだ。もしかしたらこれは僕が招いた「事態」でしかないのかもしれない。僕の怠惰や、社交性のなさが。

怒鳴られながら、無理な仕事を押し付けられ、やった仕事は捨てられ、クソだと罵られながら仕事をする。そんなのに僕は心のどこかで憧れている。冷たくされ、孤独で、とにかく仕事だけはやらなければならないのだというような、嫌な状況を僕は見てみたいと思っている。

もちろんもちろん、僕はそんなもの一週間も耐えられないし、そんなもの望まなくても、もっとひどい状況だってこの先ある、きっと。僕はとにかく、僕の今の状況と、今後の状況について、不安ばかりがつのっていて、何もできない自分が嫌だ。

もっと真剣に勉強しなくちゃなぁとか思ってもないことを書いてみる。いや、本当は思っている。思っているけど、信念じゃない。僕の中のことっていうのは大抵がそんなもので、強く思いはするけど、信じてはいないのだ。無条件で信じられるものがないというか、それが欲しいって重いばっかり強くて、少しも楽しくない。

秋葉原が楽しくなかったのだ。きっと僕が楽しく思える場所なんて、この世界にないんじゃないかって思える。そのくらい秋葉原はすごい街だと思ったし、まったく楽しくなかった。

山道とか川べりとか人のいない電車とかのほうが僕は楽しい。人のいるところで何かに興味を示している自分が耐えられないのかもしれない。何でかはよく分からないけど、そういうのが意地汚いことだって、幼少のころからそればっかり考えていた気がする。

たとえば食事を囲んでいるときの、最後にひとつ残ったおかずだとか。僕は、それについて考えはするが、もうそれはただの習慣で、ただ居心地が悪い感じしかない。まぁ、誰でも(多くの人が)そうだろうけど。実際的にはその気まずさが嫌なので早々に断って食べてしまう。頭の中と行動が違う、そんな自分が好きですけども。

たとえば高校で、クラスでイベントごとなどで駆ったりすると、先生がジュースをおごってくれたりしたけど、僕はそれを受け取るのがすごく嫌だった。とくに理由があるわけではなくて、ただ、教団のところまで行って、その飲み物を受け取るというのが嫌だった。何も嬉しくなかった。もちろん、先生の気持ちとかそういうことを考えたら感謝しなくちゃいけないんだろうけど。いや、もちろんそうやって自腹を切ることで先生の誠実さみたいなものは感じられるのだけど、いや、そうではなく、ただ僕は、そういう状況で、とにかく外で人に物を受け取るというのが嫌なのだ。ただそれだけだ。


彼女は今どうしているだろうなんてことをよく考える。仕事のできる女性になっていてくれたらと思う。宿題を渡されたその日の休み時間に終わらせてしまうなんて発想は、僕には新鮮だった。しょうじきそれしか覚えていないけど。

別の女性の話。大学で知り合った女性の知り合いがいて、大学の集まりで夜通しカラオケをしたあと、夜道も暗かったので送っていこうかという名目で僕はその子と話がしたかったのだけど、断られた。僕はすごく落胆した。卒業も近いし、女の友達なんてそんなにいないから、もっと話したかったのに。断られた理由は、ちょっと忘れてしまった。つまり、僕と彼女の関係として不適切だということなのか、それとも人からそのように見られるのが迷惑だという話だったのか。しかし僕とこの子の問題だとするなら、僕は釈然としない。人に勘違いされるというのならまだよいが、周囲に人はいなかったのだ。

つまり僕は何が言いたいかって言うと、彼女は僕を男として見ていてくれていたのだろうかってことだ。それはもちろん好意的な方ではなくて、逆の意味で。どちらにしても僕は嬉しくもあり、まったく嬉しくもない。僕はなんと言うか、

ようは、小学生みたいに隣の席に座った女子と普通に会話するみたいな感じが好きなのだ。男と女の関係みたいなもの、そのお約束事みたいなことが出てきたり、そのお約束事に従わなくてはならないとか、自然に従っている場面を見るのが嫌なのだ。小学生にそれはなかったのかってことになるし、きっとそれはあったのだろうけど、僕はそのことを意識はしなかった。たぶん今ほどには。だから楽だったんだろうか。いや。

僕は遅らせてもらいたかった。たんに、気持ち悪がられて立っていう事実(事実かどうかは分からないけど)を直視したくないというだけなのかもしれないけど。

いや、この手の話は僕の中には結構ある。とにかく僕は一緒には帰りたくない部類の生き物なのだろう。そのように純粋にまじめに卑屈になってみる。そういう姿勢を忘れてはならないんじゃないかと思ってもみる。それは僕の勘違いなのか、それとも僕に備わっている気持ち悪さなのか。さて、どうか。ここで迷うのは僕にプライドがあるからだろう。安い。果てしなく安い。

信用が置けず、不安感を煽る人間なのだろうということは薄々感づいていました。しかし僕が釈然としないのは、信用できないなら不安がる必要もないではないかということだ。信用しないのならば裏切られる心配もないのだ。もちろんこれは鏡の話なのだろう。他人の基準は自分なのだから、僕は他人を信用しておらず、他人に不安感を持っている。そう考えると僕が他人にどう思われているか分かる。

それは、本当のところではなく。自分が他人にどう思われているかということを、僕がどう考えているかってことでしかない。でもそれがすべてじゃないですかと、僕は結構根強いところで信じている気がしないでもない。自分さえ変われば世界が変るというやつである。もちろん、僕はそんな言葉、信じてなんかない。


他人は僕を存在だと思ってくれていて、それが僕にはちょっと重く感じるのだと思う。少しでも、重く感じる。だから、僕と会話するときは僕はないものと思ってもらいたい。それは責任を取りたくないからなのだろうか。きっとそうだろう。そうだそうだ。

ずいぶんと気分が悪い。先週はもっと悪かった。今週はまだ、よい方だ。

僕は責任をとってもいいから、他人に存在を確認して欲しいと思っている。思い始めているような気がする。孤独感というものを聞かされて、そういえばそういうのがあるんだって気づいて、それを次のテーマにしようとしている。

たしか、最初のテーマは真理で、次が卑屈で、次が退廃で、虚栄で、諦観で、怠惰で、罪で、そして今度が孤独。僕の病気はいつになったら治るんだろう。もちろん治したくないからこんなに気持ち悪い自分の事を書いているのだけど。でも僕はもう少し、もう少しだけでいいので、頭よくなりたい。

ちなみにテーマの順番は嘘です。諦めの方が結構早かった気がします。

なんか諦めてる風だよねって言われることがあって、ぜんぜんそんなことないって返すのが常なんですけど、やっぱりテーマにして考えていた分だけ、文体として装うのも上手くなるってことなんでしょう。ただ本当に諦観みたいなものが僕にあるのかって考えると、やっぱりそんなことはないと思う。

僕の考え方がずれたのはいつだろうって考えることがあります。それで幼少までさかのぼると、意外と今のままって感じがする。人見知りするし、人見知りしない、この妙な感覚。怖いものはないし、何もかもが怖い。ようは躁鬱気質なんだと思うんだけど、遺伝だと思うんだけど、環境のせいかもしれないけど。

僕には本気になれない理由がある。それは僕の信念にかかわる問題で、その信念にかかわる問題は、今の僕にはどうやっても解決することはできない。もちろん断言できるほど大きな問題ではないのだけど。

つまりそれは僕が何を信じているかってことだ。それはさっき言った。

僕はそれを言い訳にがんばらないでいるとも言える。真実。僕には信ずるものがないから信じないのだという言い訳である。矛盾というか、何かおかしい。

僕はじゃあ救いを求めているのだろうか。僕はそれで、僕自身にしか僕を救うことはできないと思っていて、そんなことは絶対にありえないという諦めが、僕の諦め風の態度なのだろう。だんだん文章を作るのがめんどくさくなってきた。

文章を書くのは好きだけど、まとまった文章を書くのは苦手だ。もう飽きた。もっと長く、ひとつの文章を長く書きたいんだけど、どうしても同じような文型になって自分でもやっぱりおもしろくないなって思う。おもしろい文章ってどうやったら書けるのだろうって考えることは、絵がどうして上手くならないのかってことよりもあまり考えない。絵も文章も書かないからうまくならないってのはあると思う。

でもそれ以上に絶望的に絵が描けない人や、文章が書けない人もいる。僕が絶望的に泳げないとか、勉強ができないとか、通常状態を維持して生きられないとか、そういうのと同じように。そう、絶望的に。

僕はこの話をするときにやっぱり差別意識のことを考えてしまう。絵が描けない人のことを思う。僕だって満足に描けるってわけでもない。でも本当に、絶望的に、信じられないほどに、下手な絵を描く人がいる。それも、絵を描くことを趣味としている人間の中に。僕はそのことについてすごく思い悩んでいる。哀れだと思っているわけではなく、僕もそんな感じに、人生において絶望的な立場になっているのではないかと。

人には向き不向きがあるし、下手だろうと絵を描くのは自由だ。そして、絵も文章もきっと練習すれば上手くなる。上手くならないのは、練習の仕方が悪いとか、練習時間が少ないとか、そういう単純なことだ。これもひとつの僕の信じていない信念のひとつですね。描けば上手くなる。これは絶対だ。

それでどうやって描き続けたらいいかって言うと、体力とか集中力がものをいうのだと僕は思う。だから僕は運動しようと思うのだけど、そこでエアロバイクの購入が最初に頭に浮かぶのは、僕の生粋の引きこもり根性のなせる業なんだろうな。カルマ。


そんなわけで久しぶりに愚痴などなどを書きました。こんなものを書きたかったわけではない。僕は小説とか読ませるものを書きたい。それに書くなら書くで、もっとちゃんと深く書けたような気がする、昔の僕なら。書きながらテンションが上がったり下がったりしていた気がする。今日のこれは何か消化不良で、何回か書いて消したし、失敗作だ。

仕事は概ね楽しい。今後の不安があって、それが嫌だ。まとめるとそういうことです。孤独についてはあまり考えていません。じりじりとした焦燥も、最近涼しい夜の風で癒される気分です。寒くなればなったで、まぁどうせまたアレコレ言うけど。

降ってくるのを待っているんだろう。当然として。天使を待つ自分を僕はどう思っているのだろう。どうも思っていないから、こうやって日常を続けられるのだろうけど。自分に関しても無関心で僕は本当によかったと思う。これ以上だったら僕はやっぱり鬱病にでもなっていたと思う。もちろん今の僕がそうでないとは言えないのだけど。

しまらない。まとめがない。終わり。