どうして我々は上手く喋ることができないのか

主語を大きく(例 我々)して、話のきっかけを得るというのは悪くない方法だとタイトルを考えながら思った。これは、主語の大きい奴の話はクソ、というのを応用して、主語を大きくすれば語れることがなくても語っているように見える効果を出しているんですね。もちろん、語り手の思い込みですが。

以上枕です。枕は重くて不安定な頭を支えるために、自分に合ったものを使用しましょうというのは常識です。妙に高かったり、逆に低かったり、ごつごつしていたら、首が疲れてしまいますよね。

僕が喋れないと痛切に感じる瞬間というのは、そのことについて考えたことがない話題が上がったときです。しかしもっとひどいのは、その話題(問題)について「考えないようにして」いることがあるってことです。そうなると、僕は口ごもるしかなくなる。普段から考えないよう、はんぶん反射的に思考をストップしている事柄なのですから、そのことについて喋れといわれても喋ることはありません。

それが何気ない話題ならいいんです。たとえば政治の話なら、「政治は興味ないから考えたことない」で済みます。でもそれが大事な話だったとき、喋らなければならないときだと、僕はもうどうしたらいいか分からない。とはいえそのような状況になったことなんて、先生に何気ない質問をされたときとか、あとは就職活動中に面接をしたときくらい。

これから僕もまともに仕事をするようになれば、おそらく人と会話することも増え、その中できっと普段考えないようにしていることが話題として浮上してくるかもしれない。そうなることが僕は怖くてたまらない。

僕は適当なことは喋れる人間だとずっと思ってきた。もちろん、そんな勘違いと一緒に、僕は人とは違っていて会話が苦手で根暗な奴なのだという認識も持っていた。でもどちらも間違っていて、もちろんどちらも正解だった。僕は特殊さを感じられるくらいには口下手、そして喋り好きなのだった。

さて、我々はどうして喋ることができないのか。それは自分をよく知らないからだと、多くのフィクションが僕にそう教えてくれる。自分を知らない人間は、何かを表現することはできないのだ。断言すると胡散臭さが増す。


なぜ我々は上手く喋ることができないのかということをテーマに、今後は語っていこうと思う。できれば音声で。

とはいえ喋りというものにさほど関心があるわけでもないから、なぜ我々は上手く表現することができないのか、という大雑把な単語を使ってテーマを広げたいと思う。なぜ我々は上手く絵を描くことができなのか。


夏休みもない社会人、夏なんてすぐ終わってしまえと思う。でもこの夜の涼しさだけは好きだから、どうかこのまま殺してください。希望は萌え死。男の娘でも可。