やると言ったことをやらないということ

僕は、ゲームを作りたいと自分で言い出してから何年たったかもう覚えていない。

たぶん三つくらいの理由で、僕はそれをいまだ成し遂げることができていない。その理由のひとつが、それらの理由を直視するのが怖いってことだと思う。

あんまり暗い気分にもなれないし、慰めモードに入るのも、何となく嫌だなって気分に最近、文章を書いているとよくなる。今まで言ってきてやってこなかったのに、まだやるのかっていう諦めがやっと、僕にも出てきたのかもしれないし、今はただそういうニュートラルな気分ってだけかもしれない。

僕は、とにかくどうにかしたい。このどうにかしたいっていう気持ちは、やっぱり人には分かってもらいたいから、どうにかしたいと思っているんですって話をよく僕はしてしまう。そんな話はしない方がいいのに。

そういう話をすると、人の言葉というのは思っている気持ちと同じようには通じないから、人によっては、山本は何か大きいことをしたいって志があるらしいという勘違いをする。そういうことになると僕は、もうこんなことすべてやめてしまおうと思う。結果的に僕は、嘘をついているんだから。

勘違いではないのだ。やろうと思っているって言っている人間がいたら、僕だってきっと志のある人間だと思う。

僕の底を知っている友人は、僕がなにを言っても、なにをしたいと言っても、ただ僕が言っているだけというのを分かってくれているように思う。だから僕のこの、何かをしたいって言う願望は、ある種の(自虐)ネタでしかなくて、本気にされても困るって僕は思っている。

冗談なのか本気なのかっていう境界を曖昧にしているのは、実は僕自身なのだろう。そういう境界が曖昧なものが僕は好きだから、実生活でも、どうしても、変なふうな空気を作りたがってしまう。

好きとはいえ愉快ではない。本当にそれは、すごく後悔することばかりだ。たとえば人に突然、冗談で説教してみたりとか。できるだけ冗談っぽくしようとしたって、やっぱりそれは何か真剣みを付けないといけないと、僕は自分の考えのすべてを使って理屈立てて説教をし始める。

自分でもいったいどうしたいのか分からない。ただ気楽かもしれない。おそらく僕の言葉の多くは、本気だとも冗談だとも思われていない。たぶん他人には、彼の中では本気なんだろう、というように思われている、そんな気がする。ただそれは僕にとっては冗談か本気かも決めかねているようなことだから、それが実際のところ何なのかっていうのは誰にも分からない。

他人は自分に興味がないということを根拠に僕は何でも言う。それで勘違いされても……というか、なにを言っても勘違いされるし、それだってどうせ軽い無関心からくるものだ。

次。

このイライラはたぶん考え方とかそういうことじゃなくて、僕の傾向と、健康状態の乱れでしかない。上に書いたようなことも、本当のところかやっぱり分からない。やっぱり僕は世間はなるようにしかならないとしか思わない。頭がよくないから。考えるのがおっくうというのもある。めんどくさい。

次。

明日は何をしよう、楽しいことがやりきれない、って思いで夜眠れればいいのになぁって思う。