無題

一日中コンピュータの画面を見ているような気がする。とはいえコンピュータというのはただの道具だと言われ続けてきたので、コンピュータ自体を一日中やり続けることに問題があるとは思わない。絵描きだって一日中筆を握っているのだから(そうか?)。

あんまり書く必要がないな、という気分の方が大きくて、書いた文章を消してしまうことが最近多いです。上の文章に関係して、今日どれほど文字を見続けてきたかということを数行書いたのですが、めんどくさくなったし、おもしろくもないので消しました。じゃあ、それを消したという文章が、事実を述べようと作った文章よりもおもしろいかと言うと、決してそうではない。むしろ、最初に書いていたものの方が現実的で、具体的でおもしろいかもしれない可能性がある。

でも僕はそういうストレートに具体的なことを書くということがどうしてもできない。僕の文章の書き出しはいつでも「僕は文章が書けない」だし、「書くことなんて何もない」だし、「書けないということを書くということはどういうことなのか」だ。真正面から物事を書いたことがない。書くとすればそれは自身の内面についてであり、それは正面から書いているつもりであっても、どうせ僕自身の僕自身への感じ方でしかないのだ。

文章がおかしくならないように文章を書くということに僕は少し執着しているのではないかと、僕は今ひらめいた。もちろん文法的にとか、句読点の位置的にとか、そういう難しいことは抜きにするとしても、僕は自分が正しいと思っている文章作法に従って書こうとしすぎている。正面から書きたくねぇ、とか気取るのならば、文章ももっと崩すべきではないのか。あまりにも真面目に書きすぎているのではないか。

ここで突然奇抜なことを書き始めれば、それはまた正面から書くということになる。それができないと僕はつい先ほど書いたとおりだ。べつにそれは自分に制限しているのではなくて、つまりステージに立たされて堂々と芸を披露するということがどうしてもできないということだ。どういうことだ?

ここで僕はおっぱいの話を書いてもよかったのだけど(事実少し書いて消したけど)、それをすることができないのは、照れとか恥とかがあるからなのかなって思う。

他人を傷つけるということが僕の中で大きな快楽のひとつなのだということが年齢を重ねるごとに分かってきた。

でも僕には他人を傷つける習慣はない。そんな習慣があるのはいじめっ子だけだ。あと虐待する親。それとDQN。ヤクザ。駄目な上司。駄目な教師。なんだ、いっぱいいるね!

つまり人間にとって他人を害する行為というのは、とても身近なものであるわけですね。しかし僕たちは、暴力について学んできたでしょうか。学校で教わるのは戦争です。教わりたくないですが、いじめから暴力を知ることもあるでしょう。でもそれは学ぶということなのか。他人を害するということを学ぶと表現するのは適切なのかどうか、という問題ですね。

では他人を傷つけるというのはどういうことなのでしょうか。そしてなぜ、それによって僕たちは嫌な気分になったり、逆に、いい気分になったりするのでしょうか。

しかし、今の僕は『悪徳の栄え』という小説に影響されて、びっくりするほど酷い登場人物たちの哲学に心酔しているので、冷静に上のような問題について書くことはできません。残念ですね。

どんな言葉でも他人を傷つけることがある、という慣用句(ちげぇよ)があります。(略)。

この世からすべての不快なものがなくなればいいなって僕は思います!

僕にとって不快なものがいっさい存在しない世界が訪れればいいのになと、毎日思っています!!

僕が待っているのは、たぶんそんな極端なものじゃないのかもしれないけど、僕は頭が悪いので、具体的な幸せなどを思い浮かべられなくて、ただすべての救いなどを求めてしまうのだなぁ。


今日も冴えない感じですが、何も考えないで文章を書くのはおもしろいので、みんなも書くことがないときはやってみるといいと思います。