笑いながら毎日暮らせるってわけでもない

もっと具体的なタイトルがあった。単純な作業の堅実な積み重ね、でも良かった。

でも僕はもっと深い意味が欲しかった。そうでなければ僕の今までの人生は無駄だったってことになる。逆。無駄だったということにしたいからこそ、僕は浅く淡い意味を霧散させようと、連想ゲームで具体性をなくした。

僕には書けないのだろうと、いつも他人の文章を見て思う。きちんとした文章。まとまっている文章。期待を裏切る文章。読ませるために書かれた文章としての文章を僕は今後も書くことができないだろう。

諦めなければ僕にも書けると思っていたことがあった。逆。なかった。

そんな期待を持った日は一日としてなかった。僕は羨み妬むことはしても、それを自身で手に入れることを信じることはなかった。

また僕は同じことを言う。これは僕のひとつのテーマなのだと思う。

夢がなく希望がないから、続けていられるのだと。


人がつらいと感じるのは理想と現実の差だから、理想を持たなければその差もなくなる。もちろん僕に理想がないとは言わない。でも僕の中の理想は、僕が求める理想ではなく、僕を嫉妬させ焦燥させる、ただの劣等感でしかない。

もちろんそれが人にとって大事な感情なのだろう。物を作るうえで、大事な感情なのだ。あの人よりすごいものを作りたい、世間をあっと言わせ驚かせたいという気持ちだ。

僕はその感情を強く感じたくないからこそ、その感情を無いものであるように振舞った。逆。その感情が完全に自分を支配しているという言葉によって、またその自身の言葉の価値を低くしていくことで、同時に価値を減らしていったのだ。

つまり、僕は本当のことを嘘のように言い続けることによって、僕にとっての感じたくない感情を減らしていこうとしたのだ。


この予想は、もちろんその一環として書かれたものだから、僕にとってそれが本当かどうかは問題ではない。問題はどこだろう。ごまかし続ける自分だろうか。ごまかしのために触れたくない部分に触れ続ける自分だろうか。傷を痛めつけるのに確信にまで爪を立てない自分だろうか。言葉が繋がるままに任せる文章しか書けなくなったのは、いったいどうしてなのだろう。


シフト。


僕は文章を読んで感動すると、やはり僕には書けないのだと諦めの言葉が出る。僕は文章を重ねることに慣れていないので、いつも前の文章に続く文章を連想して書くしかない。僕の頭の中の、文章を考える領域には、空間的な広がりがなく、べったりと平面なのかもしれない。それどころか、そこには直線しかなく、ただそこをレールに沿って歩くようにしか、僕は文章を書けないのかも。そんなふうに思う。

現実の話をする。

僕の現実は今、毎朝の目覚めの悪さに支配されている。思えば昔から僕は目覚めが悪く、いや、目覚めは良いのだけど、気分が悪い。

気分の悪さはどこからくるのだろう。それは純粋に精神の問題かも知れないけど、ここはひとつ身体の問題ということにしておこうと思う。なぜなら、休みの日の朝は、いつだって元気よく起きられるからだ。

他にも現実はあるだろうか。こうやって今文章を書いているこれは、僕にとっての現実だろうか。僕は現実をつらさだと思っているのだろう。だから現実が見えない。僕にはつらいことなど何もなく、あるのは毎朝の寝起きの憂鬱だけだ。

僕は悩んでいる。僕は好きなように生きたいと思い、現実に好きなように生きていると思う。たしかに理想と……これを理想とは言わない、メイドロボは理想ではなく妄想だ。話を戻す。現実的に僕は僕の思うように生きているが、そのことについて何かしらの責任のようなものを負う必要があるのではないかとひとつ、悩んでいるように思う。

僕に何か責任があるだろうか。答えは僕の生き方の哲学に照らし合わせれば「いいえ」だ。もちろん家族や友人には、責任を感じるべきだと僕は思っているし、それは納得できる。でも僕は責任を負わなくてもよいことに関しても責任感を感じてはいないかということだ。それは直接仕事のことではない。まったく違う。

僕は他人の心の弱さというか、他人の感情というか、つまり周囲の人間性みたいなものについて、具体的に言うと全体を合わせた僕を見ている視線、あるいは僕の視線について、責任感、のようなものを感じているように思える。

もちろん、もちろん僕は言いたいことをごまかしているけど、その言いたいことをほわっとさせれば、だいたいこんな感じの文章になるのだ。他人の視線が嫌なわけじゃない。もちろん嫌だけど、それは責任感とは違う。

たとえば、僕はたぶん僕一人に文句を言われるよりも、「よりも」は大げさだった……

たとえば、周囲で、習慣が破られるているときに、そのことに関して何か……。


決まりを守らない人がいることに大して憤る人、また、決まりを守らない人はもちろん、決まりを守る人、それに無関心の人、

僕は自身の立ち位置を決めかねているから、そのようなことに不安を覚えるのだろうか。

具体的なことは、一切書けないが、それは具体的な事例がないからだ。僕はたぶん、何かの問題を仮想的に抽象化して(仮想とか抽象とか言ってみたかっただけ)、伝わらない方法で伝えようとしているのだと思う。世の中には、とくにネットにはエスパー能力に長けた人がいるので、僕の文章を読むことで僕の悩んでいることが分かってしまう人も少なからずいるだろう。


もっと現実の話。

やっぱり僕は理想と現実のギャップというものに苛立っているのだと思う。これまでの文章は、その隙間を掘り返して書いてみただけの、ただの遊びなのだと思う。

僕はもっと効率的な方法があるんじゃないかって思って、それで悩んでいる。僕自身、もっと効率的にやろうと思えばできるのだと思う。そして、それをやろうとしないでいることで、他人から不信感を持たれているのではないかという不安だ。それは職場でもそうだし、趣味にしているそれぞれの活動にしてもそうだ。今はとくに職場でその傾向が強いから、こうやって慰めに文章を書きたくなったのだと思う。

その問題を他人や社会に転嫁しようとしている自分も嫌だし、そういうものに転嫁して気を紛らわそうとしない自分も嫌だし、そうやって悩んでいる自分を誠実だと思おうとする自分も嫌だし、もちろんその逆も嫌だ。僕はこのようなことで悩みたくない。僕は悩みを持ちたくないし、思い悩む時間というものをなくしたい。

何も感じたくないという傾向は僕の中に強くあるのだと思う。僕は、実に多くの他人から無感情だという類のことを言われたことがある。それはもちろん直接言われるようなことではないにせよ、また、多くの現代の若者が(つまりどの時代の若者でも)持っている傾向だとしても、僕個人にとっては重要な、僕をはかる目安だ。元気がないとか、おとなしいだとか、まじめだとか、覇気がないだとか。

とはいえそれが僕の悩みではない。僕は僕で、そのことについて悪くはないと思っているし、問題だと認識してもいる。たまに自分でも信じられないほど勇気が出たりすることがあって、そういうときに自信を得られたような気もするし、普段無感情だと思われたり、自分で無感情だなと思うことは悪いとは思っていない。

問題はそれで、本当に無感情にはなれないということだと思う。僕はやりたいことをやっていて、文句を言われるまで僕は僕のやりたいようにやるし、もちろん人の意見を聞かないなんて意固地になるつもりもない。それでも僕は、自由だと思えないのだろうか。問題。


自由の話。

自由という言葉に問題を寄せ集めて考え直すことで僕はまたひとつテーマを見つけるかもしれない。友人の影響で僕は、孤独というものをつい最近気づいてみたものの、あまり長くは続かなかった。小説を読んでいると忘れてしまうからだ。僕にとって大きなテーマではないのだ。

自由。それは愛のことだ。というわけで、すべてを内包するその言葉を使うことによって、僕はさらに文章を長引かせることができる。しかし、それは本当に自由を学び、自由を尊ぶ人々に対してあまりにも不誠実ではないかという気もする。もちろん、自由であるなら、自由について何を感じるかだって自由であるはずだ。人を傷つけることを厭わないのであれば、また、厭う厭わないに関わらず僕たちは人を傷つけるという永遠のテーマに沿って言えば、どのようなことをどのようにするのもまた、自由、なのかもしれない。思わず僕は言葉を濁す。傷つけることよりも、傷ついたと文句を言われることが怖いのだ。このような部分にも僕の一段上がった不誠実さが見えてくるように思う。このようなことを書いて得意気な人間を、さぁ見てくれ!


とはいえ、時刻はすでに、あと十五分ほどで今日を終えようとしている。さすがに日を跨いでまで書いていたい文章ではないから、このくらいで書き終えたいと思う。

何か気のきいた言葉はないかと、歌詞を思い出そうとする。


……何も言わないで、君はただ少し、悲しみの中にいるだけだから