信じることに根拠などないと思うので、僕のこれは根拠のない自信などではない、という反論

むなしい。日々がとてもむなしく感じる、今日この頃です。久しぶりのエントリがこれでは、ますます読者が減って、黄昏時の街の日記は無くなってしまいます。しまいません。


根拠のない自信という言葉がよく使われますね。

こういう定型句みたいな言葉の使われ方って僕ちょっと苦手で、会話の中で使われるとその言葉だけが浮いて見えてしまう。とくに恋愛関係は、その手の言葉が多い。

もちろん、そういうしっくりくる感じが出る言葉っていうのは、逆に無難で使いやすいのかもしれない。

まぁいいとして。

自信とは何だ、ということを僕はお昼に松屋に歩きながら考えた。松屋、安くて他の店に入る気が起こらない。

自信というのに根拠があるのか、そもそも。根拠が必要なのか。

根拠。理由というものが自身への信にあったとしたら、それはただの信じるということの理由に過ぎないのではないか。

つまり信じる理由というのは、信じる理由でしかない。言葉でしかない。

僕たちは言葉でもって「信じる」をしているでしょうか。いいえ、していません。

言葉によって強化されたそれは、信じるではなくて、信じるということについての言葉です。

いくら恋愛を語ってもそれは恋愛ではない、ということと同じですね。

自信なんてもともと根拠のないもの……というのもよく聞かれる言葉なので、明日はそのことについてお昼に考えたいと思います。


たんにストレスの耐性の問題だと思います。根拠のない自信が打ち砕かれる、というのは。

本当に信じていたのなら、きっと死ぬ瞬間だって信じていられる。そこに言葉があるだろうか。死ぬ瞬間に信念を抱くことに言葉なんてものが。

ようは信じる力が弱かったのだ。

あるいは賢くなったのだろう、少しだけ。今までの自分は何をやっていたのだ、根拠のない自信で周りが見えていなかった……って、今でも見えてねぇよお前。


もう少し自分を信じてみようということをテーマに最近は生きています。

根拠のない自信だろそんなのっていう世間の視線が痛い(被害妄想)。

僕は自分が愚かだってことくらい知っている。そうさ、僕は何だって知ってるんだ。

何だって知っているからこそつらいことがあるのだ。神も楽ではない。


いろいろとゆるすぎてきつい。ストイックな人間になってみたい。


僕は悩みなんてものは一瞬で問題を見つけられると半分信じているのだけど、最近自分がこんなにも悩んでいるのに解決策が見つからなくて困っている。

策はある。とにかく、どうにかしようとすることだ。

退屈なわけではないのだが。