別の日に、同じ夢を見ること

今週のお題「夢」

廃墟の夢だった。そんなところが舞台だなんて、ちょっとかなりかっこいいと思う。廃墟といっても、たぶんモデルは、起きている間に見た工場の絵だった。小学生の頃、廊下に張り出されていた上級生の描いた工場の絵。どうして工場の絵なんて書かされてるのかよく分からなかったけど、今にして思えば社会科見学とかそういうときに書かされたのだろう。工場は鉄骨やパイプがむき出しになっていて、灰色の建物には飾り気のない換気用の窓があった。複雑でありながらシンプル。かっこいい。

だからもしかしたら廃墟ではなかったのかもしれない。全体的に錆びた印象はあったけど、工場なんてだいたいそんなものだ。しかしなんにせよ、そこは廃墟で、工場だった。僕の夢の中では。

縦に長いその工場の通路を僕は歩いている。横を覗くと、パイプや壊れたトタンの隙間から同じように長細い工場の通路が、平行に伸びている。

その風景を見て僕は、この夢を前にも見たと想い出す。何度も見たような気がする。

夢とデジャヴは似ていると思う。というより、ほとんど同じようなものだと僕は思ってる。夢の圧倒的なリアルさと、現実に体感するデジャヴの奇妙さというものは、僕には同じように思える。僕は幼少の頃、よくデジャヴを感じる子どもだった。どの列に並んでいいのかを迷っている僕は、若い担任の女先生が、優しく手を引いて列まで誘導してくれるのを、確かに以前見たという奇妙な感覚で、観ていた。

脳が、身体が勝手に記憶を作り替える感覚。見たこともない景色を見たことのある景色に変え、あるはずのない何かを真実だと思い込ませる。いや、思い込ませるという手順さえ必要ない。ただ真実であると自分自身が感じるだけのことだ。それはとても不思議な感覚で、そのことを思うと僕はとても希望が持てる。

僕は運命論者である。うさんくさいリクルートかなんかが作った適職診断によると、物事はなるようになり、決まっていると僕は考えているらしい。もっともだと思う。物事はなるようになる。決まっている。しかし、決まっているからと言って僕はそれを受け入れるのか。たしかに、受け入れるしかないけれど、僕はそれをすぐに納得できるだろうか。

僕はもう、とにかく昔から自分の中の否定的な感情にイライラしてきた。たとえば僕はイメージの中で、反復したり、同じ動きを繰り返す情景を浮かべるのが好きだった。眠れないときはよくそうした。たとえば右回りの風車を考える。右回りだ。僕は右回りの風車をイメージしたいのだが、僕の中の否定的な何かがそれを許さない。何かを定めようとすると、すぐにその逆をイメージしてそれを壊してしまう。僕はすごくそれにイライラした。そして今も同じように苛立っている。

無理して人前で喋ったり、毎朝学校や会社に行くために起床することに、こんなにもイライラするのはそのせいだ。以前なら自分のイメージの中だけで肯定と否定を繰り返していればよかったのに、勉強や仕事が嫌いになると、それを肯定的に思わなければ続けられないから、同時に否定的になる僕がもちろん否定するのだけど、勉強や仕事というのは、もちろん必要なことだから、僕はつまり生活を否定し、そのような生活を続ける僕を否定する。だからイライラする。

たた、上でも書いたとおり僕は、夢というものが希望になると思ってる。僕がイライラしていること、つまり日々のトップテーマそのものは、僕の肉体的限界や知識的限界ではないのだ。ただ、僕個人のイメージの問題でしかない。左右に振れる振り子のイメージと、その周期を乱す否定的なイメージ。そういった、言ってみればどうとでもなるそんな問題が僕にとっての一番の懸案事項なのだ。もちろんそれは現実の世界をまるっきり書き換えるよりは「どうとでもなる」というレベルの話だ。本当にどうとでもなるなら、とっくにどうにかしてる。

すべては起こり起こること。僕が現実を夢のように素直に受け入れることができるなら、僕はもっと悩まないで済むだろう。デジャヴは決して、人間が先の出来事を予知しているわけでも、たんに予想しているのでもない。ただ頭が既知の光景だと錯覚するだけだ。夢も同じで、今「現実」で起こっいることなのだと錯覚しているだけだ。

それならどうして、本当に現実で起こっていることを僕は今「現実」だと思わないんだろう。否定的になるのだろう。夢には良い夢も悪い夢もある。何度も見る夢や、印象に残っている夢がある。現実と夢に違いなんてない。違いがないと僕は考えるべきなのだ。

でも本当にそれでいいんだろうか。現実を夢のように感じていたり、感じようと努力している今の僕自身が悩みの原因なんじゃないか。分からない。


どういうふうに生きていけばいいのか分からない。どんなふうにでも生きていけばいいのだって思うけど、いつか、歩いているときにどうしようもなくイライラして、何もないのに立ち止まったり、そういうことよりももっと面倒な行動を自分が始めるんじゃないかと、今の生活を続けるとそうなるのではないかと、不安になる。

これはべつに誰かに相談したい類の話ではない。相談できないから、こうやってブログに書いているわけじゃない。相談しても分かってくれる人がいないから書いているというわけでもない。僕にはもっと具体的な問題があって、それについては誰にだって相談できる。これは僕にとってのトップテーマだけど、具体的な問題じゃない。とはいえ生き方や命に関わるということはあるかもしれない。でも、強がっているわけじゃなくて、本当にこれは僕個人の問題なのだ。大事なことだ。