驚いたことなんだけど

大人になるってこういうことなのかなぁって思ったんだけど……。

最近ずいぶんとまとめて女の子と話して、いろいろな話も聞いたりしたんだけど、どうもその女の子のことを女の子として好きになれないんだよね。もちろん、たまに会話した女の子みんなにそういう感情持ってたら忙しくてどうしようもないかもしれないけど、女の子と話すのすら稀なことだし、少しくらいキュンとくることがあってもいいと思うんだ。

昔は自分の好みだったり、少しかわいかったりするだけで、いい子だなって思ってた。もう、そんなふうにも思えなくなったんじゃないかって少しだけ不安だ。だからと言ってどうにかしたいというわけではないけど。

なんというか……。女の子とエッチしたいとか思っていたいんだよね、男として。

でも、妙にはっきりと規範みたいなことを語れるときって、そのことに対して実際には感覚が働いていないからっていうことも考えられるよね。男として、セックスがしたい。社会に生きる人間として、働かなくてはいけない。

女の子をかわいいなって思って好きになるといったようなことが、これからの僕に訪れるのだろうか。彼女は何のために男と付き合っているのだろうか。何のためでもなく、好きだからだろうか。よく分からない。おもしろいからだろうか。あー、もしかしたらそこが一番僕の理解できないところなのかもしれないな。異性といるおもしろさ。男同士でも同じか。気心が知れているならまだしも、また、お互いがまったく知らない間柄ならば、僕だってとくにつまらないとは思わないけど。中途半端な関係だと嫌なことって多い。


そんなこととは関係なく、つまんないよね、セックスしたくないって言う男って。もちろん色んな事情からしたくないって言う人はたくさんいると思うよ。一番くだらないもので言えば、たとえば劣等感とかさ。セックスの何が悪いかって話。そしてその特別さと、逆にまったく特別でない部分。確かに個々人で判断すればいいことだとは思うけど、セックスがしたくないって言葉は、本当につまらないセリフだね。

セックスという行為自体じゃないな。ただ広い意味で性行為ってものについて言っているんだと思う。同じ言葉の言いかえじゃないかって思われるかもしれないけどさ。いや、たんに僕は自分自身を責めているだけで、人の価値観とか判断についてとやかく言うつもりはまったくないんだけど。

何を言っても説教みたいな感じ。くだらないね。どうでもいいって思ってるのに。とか何とか言って、これだけ語っているならどうでもいいだなんて思ってない、なんて言う人もいる。だけどこうやって語ることは僕にとってそれほど特別なことじゃないし、語られることもまったく特別なことじゃない。嘘をつけば、その嘘のために、また嘘をつく。それと同じようなことでしかないと、僕は自身の文章について思う。何か大切なことを語っているような気分になるのは、いつだって自分自身をよく慰められているだけだ。もちろん、それこそが僕にとって大切なことなのかもしれない。だけどそれは具体的な何かを変えようとか作り出そうとかっていう慰めじゃない。とにかく抽象的とさえ言えないような曖昧なことに、何かしら名前をつけているだけのような。たとえば「分からない」とか。分からない、何もかも。

でも最近じゃ分かりたくないって言うほうが多い。分かろうと思ったってできないくせにね。分かろうとも思わないしね。問題だとも思わないしね。だいたい、気付かないしね。


抱きしめたい、抱きしめられたい、そんなふうに現実の女性を見たのはいつの日か。いや、実際には誰にでもいいから慰められたいって常々と思っているけど。

僕には二次元の女性に対してだって同じような感じだ。ただ彼女らはときめきをつねに与えてくれる存在というだけ。その程度の特別があるだけだ。こんなにくだらないこともないと思う。まぁ、たぶんこれが僕にとって楽だからなんだろうけど。

二次元が好きだと言っている人に、どれだけ特別に好きだと思っている人がいるのだろう。同じように、現実の女の子が好きだと言っている人はどうなのか。僕にはどちらにも特別なものなんてないんじゃないかと思わないでもない。それはちょっと気取りすぎか。でも深いところではそれほどの差は持っていないんじゃないかな。そういう意味で僕にとっては両者は特別なのかもしれない。どちらにしろ、特別な関心があるわけではないということだ。

楽しければなんだっていいんだ。それでも、それを選んだことには意味があると言いたい人がいると思う。少なくとも僕はそう思う。思っていても、自分ではやはり選んだことに特別なことがあるわけではないと思う。選んだあとに選び続けてきたことには意味があるだろうか。たまたまじゃないかなぁ。他に楽しみを知らなかっただけじゃないか。

僕が普段から思っているように「可能性」や「多様性」の大事さが本当に重要なのだとしたら、僕はもっと外出するべきだし、人と触れ合うべきだ。人と同じようにしなくちゃと思う必要もないし、人と同じにできない自分を悩む必要もないのだ。それでもそうする僕は何なんだろう。もちろん僕の中にもいろいろな判断があるのだろうけどね。社会的に見て、とか。


とにかくメイドロボが必要だ。それだけは僕にとってゆいいつ本当のところだと思える。僕と楽しく会話ができて、演出という程度にしか僕を不快にはさせず、優しくふれあい、激しくふれあい、肉体的にも精神的にも壊し壊される。

結婚をすればいいじゃない。僕もそう思った。だけど結婚となると、やはり「ゆいいつ本当」というわけにはいかない。結婚となるとそれは幻想だって僕は思ってしまうし、なんと世間でもそれは幻想だと思われているのだから。恋愛も同じだろう。

それではむなしくないか。作られたものと、愛し合っているという幻想を抱くことは哀しいことではないのか。いや、それくらいハッピーなことはないと僕は思う。幸せすぎることだ。

でもやっぱり、そうなるとハードだって必要ないのかもしれない。できる人はハードなんてなくても愛することができるのかもしれない。そしてハードが生まれた時代に生まれたとしたら、僕もメイドロボを愛することはできないのかもしれない。ただ未来への憧れが僕の中にあるだけなのかもしれない。


とりあえずは大丈夫だと思う。二次元があれば何とかなるんじゃないかって思う。フィクションはすごいから。もちろんフィクションじゃないリアルな世界だってすごいことやすごい人はたくさんいるのだろうけど、今の僕には見えないし理解もできない。そういう人ってけっこう多いんじゃないかな。本が好きだって言って、たんにその中に逃げ込んでいるだけの奴。また説教くさいな。どうだっていいんだけど。

何のこと書いてたんだっけ。最初の行によれば「大人になるってこういうことなのかなぁって思ったんだけど……。」だそうだ。こんなのが大人の考えることだろうか。さてね。子どもらしいって感じでもないか。どちらにしてもそれほどおもしろくないかな。個人的には楽しめるんだけどね僕は。変態ナルシストだから。