自慰自虐の類

児童への性的虐待という問題があるが、では児童が自身で行う自慰や自虐などは成長後にどのように影響するのだろうか。(追記  小論文みたいな出だしだが本文はあまり関係ないので興味を持たぬようヨロ子)

もちろん、なにか精神異常の原因となることはないのだろう。というか、精神より先に環境がそのようにさせたという気がするのだが、まぁ専門知識がないのでどうも。心理学といえば認知心理学しか単位を取ったことはないし。

性格というか、日々の生活の傾向が子どものときの日常によって決まるというのは、やはり長く言われているとおり正しいような気がする。枠が作られるとまで乱暴なことは言えないけど、やっぱりそれは、物をつかむときに左右どちらかの手を使うとか、歩き出すときにどちらかの足を出すとか、そういうのに近いものなんじゃないかと感じなくもない。つまりなにをするにしてもまず、歩き出すなら歩き出すで左右どちらかの足を前に出さなくちゃいけない。もちろん普段無意識で右足から踏み込む人でも、少し意識すれば左から歩き出すことができる。

こうなったらこうするというような枠ではなくて、むしろこうなったら身体がこうなるという、意識とは離れたところ。上手い言葉が分からんが、なんとなく始めに浮かんだ言葉は自然という単語なんだけど。


なんにしても……ライフハックとか読んで生活を意識的に変えることができるのに適した性格を持っている人と、そうでない人がいるというのは、なんとなく思う。僕はたぶん変えられる側の人間だと思うけど、もっと表面的に僕はめんどくさがりなので、無理だと思う。変なこと言ってるな俺。

とりあえずタイトルに沿った話に戻すと、自分というものについてアレコレするのが僕にとって大事なんだろうと思う。大事……必要? とりあえずあるものであるのは確かだ。ない生活は考えられない、というか、これが生活なので考える余地がないというか。

それで、たぶんそういうのを若干否定しているのが今の僕というか、つまり自分語りなんてクールじゃないって気取っていたら行き詰ってきたというか。……というかどっちにしろ(どっちにしろって言葉好きだな僕は)、人生をつまらないとは思っているのだけど。

人生がつまらないって言うのは、人生が楽しいって何度も言いたくないから言っているのであって、死にたいほどつらいとかってことを毎日思っているから愚痴るわけじゃないんだよね。人生は楽しい。人生はすばらしい。生きていてよかった! そういうのは歌詞とか映画のセリフとかで聴ければいいじゃないって僕は常々思っているわけで。思っていないわけで。

わざとらしいのが嫌い、というほど強く嫌っているわけじゃないんだけどね。可愛い女の子がベッドから起き上がるたび今日も生きてるって喜ぶのは悪いことじゃないと思うし。てかこれもフィクションか。ガンスリか。……なんかね、身近な人間が、つまり愚かで何もなせないつまらない人間が、いやもちろん僕よりよっぽど立派な人間だけど、それでも「生きていてよかった」とか日常的に喋ったら僕は吐くよ。

なんて文章を書いている僕も相当わざとらしいので、やっぱり自分嫌なんだけど。やっぱり詩とか勉強したほうがいいのかなぁ。とにかく自分の不勉強がどこに向かうにしてもネックになっているような気がして息がつまる。たぶん小学生とか中学生とかの時に宿題をやっていかなかったから悪いんだろうな。もちろん僕より勉強していない人間というのはたくさんいるのだろうけど。もちろんそれでも僕より頭のいい人間だっているわけですね。

不勉強を恥じるなら勉強しろって話なんですけど、勉強したって勉強しただけの成果が現れるだけで、僕が劣等として感じる不勉強という意識がなくなるわけがないんですよね。後ろ向きな動機からはあんまり実りは期待できないってことなのかしら。さてね。