嫌いなもののことや呪いの言葉

喋っている言葉が、どれもどこかで聞いたような、セリフっぽい人っていうのがたまにいて、僕はそういう人に遭遇するとその人を嫌いにならずにはいられないな。

それっていうのはたぶん、実際にどこかで使われていたセリフだったりもするのだろうけど、より広めに考えてみれば、たぶん、その言葉だけで完結しているセリフ、なのだと思う。

ようするに、詩の一節みたいなことですね。もちろん本当の詩というのは、それとは対極にあると、詩など読んだことのない僕は思っているので、いわゆる詩の一節ということになります。

何を言っているんだこいつ、って言ってすでにこの文章を読むことを放棄した人も、そもそも最初から読んでくれている人が少ないので、さほどいるとは思えないのですが、もう少しまじめに書いたほうがいいんじゃないかって僕も思っているので、そういう共感から読んでいただければいいと思います。


嫌いなものばかり頭に浮かんで、自分が憧れている人のような、楽しくて役に立つ文章というものがどうしても書けない。こんなことでは! と思って、僕はいつも書いているのだけど、それでもやっぱりこの調子になってしまう。

どうしてだろう、ということを考えないから改善されないのだろうと、僕も分かってはいるのです。

この、分かってはいる、という考え方がいけないのだと思う。

すべての問題を無効にするのは、そいつの愚かさではないということだ。この「分かっている」という思い込み、あるいは本当に分かっているのかもしれないけど。

分かっていると考えることが、分かっていないということになるのではなくて、「分かっている」ということを物事にくっつけてしまうことで、深く考えないでいることが、問題の解決を阻んでいる。解決どころか、問題の設定すらさせてもらえない。

だからと言って、何もかも自分は知らないのだということを出発点にしていたら、おそらく何もできない。僕は絵が描けると思っているから絵を描いているけど、世の中には「自分は絵が描けない」と思って描かない人が多い。本当なら、描きたいと思っているのなら描けばいいんだけど、人はそういうふうにはきっとできないんだろう。やりたいことはぜんぶやれっていうのは理想論だなぁと月並みに思うし。

この「分かってはいる」という根拠のない「知」が、その人の要領をよくもして、また本質へたどりつけさせない枷にもなるってことですね。


長話なんてしても意味ないみたいなことを先日書いたばかりなのに、今日もまた書いてしまいました。長い文章を書いてスッキリした思いをしていないです、しばらく。とは言えこの程度では長くもなんともなくて、もちろん片手間に読むようなブログのエントリとしては長すぎるんですけど、それでも僕には、この分量では足りないんだと思う。だからこそ長い小説を書きたいだなんてふざけたこと言っているのだけど。

自分が否定から出発していることを素直に認めようという肯定から始めようという矛盾が僕を立ち止まらせているのかもしれない。呪うしかないという呪いを肯定したら、それは呪いではなくなってしまうのだった。

それともやっぱり僕が馬鹿なだけか。