Twitterでの自分について

昨日の日付のものを見てもらえれば分かるけど、僕はあまりTwitterの積極的なユーザーではない。それに、今後すぐに飽きる可能性がある。そういうわけだから、そこから自分の傾向を読み取ろうと思っても僕自身難しい。書きたいことよりも、書きたいということが僕の欲求としては強くて、本当に嫌になるっていういつもの前口上で始めて見ました。

最近では、とくに中学校時代の同級生なんかがお笑い芸人でちょくちょくテレビなんか出ちゃったりして、僕なんかそれを自慢するくらいしか憂さ晴らしの法を知らないのだけど、などと言って、間違っても酒の席でマジに自慢なんかするんじゃないぞ見っとも無いって戒めているわけで、それもこれも僕の劣等感からくるもので、まったく本当に僕は自分が嫌になる。

ネットで知り合った人も、ゲームをコツコツと作って完成したそうで、テスト・デバッグプレイヤとしてサイトにスタッフ的に名前が載っちゃったりしてて、ちょっとうれしかったり、クソ妬ましかったりで仕方ないわけだけど。

誰だって、そういう他人を妬む気持ちってあるよね? と同意を求めて心を慰めてみたところで僕のこの甘えや、そこからくる焦燥が晴れるわけでもなくて、泣くほど好きな歌詞に僕は感動していても、結局想像力の欠如からそれを真には理解できていないのだっていう、自身の無情さみたいなものもまた僕の悩みのひとつだ。

Twitterでは比較的、そういうことを言わない人と、よく言う人に分かれているなんて僕は分析してみるのだけど、それは僕がその二つをもって物事というか他人を見ているからそう見えるのであって、現実にはさほど大きなくくりではないだろうと思う。モテ・非モテだけでは世の中語れないだろうし、何かを成したから偉いとか、何も成しえないから劣っているというのでもない。僕の良いところとしてひとつ上げられるのは、あまり他人を評価したり優越つけたりしないところだと思う。自分にしか興味がないからだと思うし、それに、他人を評価するのはめんどくさいし、目を瞑っていたいものなのだ。

僕は、僕には差別意識がないと思っていたのだけど、実際のところ僕はそのことについて考えてこなかっただけだったし、実際実際には、僕は最低の差別主義者であるどころか、他人を貶めてやりたいという暗い願望の持ち主であるという、意外でもなんでもない事実に驚愕している。たぶん不幸な人間が僕の前に現れて助けを求めていたら、表面的には助けるだろうけど、どうにかしてめちゃくちゃにしてやれないかと思うんだろう。それを現実に行わなくても、僕にはそういう傾向を楽しむ傾向が意外と意外でもなく強くあるようだ。

とはいえ現実に僕を知っている人間に言わせてみれば、僕が暗い人間であることは周知だろうし、若干変なことを考えているということも分かっているだろうと思う。暗い、というのはどうかと思うけど、たしかに明るくはないし、たぶん僕の明るさは、軽い上に、濁っている。

それもこれも躁鬱気質からくるものだと思うのだけど、とはいえ浮き沈みのない人間がいないのもまた事実なのだから、自身を殊更特別だと思う必要もない。でも僕は特別だ、僕にとっては。だから僕は僕しか語ることができないのだろうな。

さて、本題に入ると、

頑張っている人間がうらやましくてどうしようもなく焦っている。でも僕は仕事に対してとか、恋愛や結婚や異性に対しての思い悩みが、それに比べて本当に薄いことに少々薄々喜んでいる。僕は自分で、物を作る能力がない、ということを直視して絶望してしまうことが一番怖いのであって、そのほかの悩みなんてものは、本質的であるにも関わらず薄いのだ。そう、逆にクリエイターとしての自分がクソだということを直視したくないという焦燥は、僕の中で極めて後天的に、かなり仮想的に作られた「問題」であり「悩み」なのであるが、僕が一番頭を抱えるものなのだ。もちろん、「なのだ!」と断言して、そのほかの僕が薄く小さいと思っている問題から、僕自身で目をそらせようとしているのも否定できない。それも含めて、自分には深いものを作る深みがないなぁっていうことに循環するので、すべての悩みはひとつなのだと言えば格好もつくし慰めにもならぁね。

俺もずいぶんと読みにくい文章を書くようになったなぁ。怖くて誤字のチェックもできないですわ。