これからどうやって生きていくか、ということについて

ある若い人のブログに、今後どうやって生きていくかということについて書かれたものがありました。僕は社会のことは分からないし、世代のことも分からないので、ただ23歳の自分として、自分が今後どうやって生きていこうと思っているのかを書こうと思います。

僕が文章を書くときにまず最初に思う「具体的に書こう」というテーマを常に頭に思い浮かべて……と思いますが、いつもどおり、できるだけ自分が傷つかないように具体性を欠いた文章を書くと思います。

現在、過去、未来の順番で書くことで、人生を点ではなく線で捉えることに重点を置きたいと考えています。

できるだけ長く書きます。でも飽きたらすぐに書くのをやめにして、今一番楽しい読書タイムを満喫します。

また、「ですます」だったりそうでなかったり、僕・俺・私・わっち・あたい、などの一人称の変化が著しい可能性がありますが、そんなこと個人のブログを読んで文句言う奴がいるとするならどれだけ貧しい心の持ち主なんだろうと僕は軽蔑します。反省してください。僕も反省します。

現在

七時ごろに起きだして、準備して会社へ行く。通勤中は音楽プレイヤーで好きな音楽を聴く。歌詞や音に注意を向けて、できるだけ他の事を考えないようにする。イヤホンをしないで歩くと、自分の足音や周囲の物音に不安を覚える。

仕事は順調である。順調でないのは会社であって、僕の仕事ではない。会社の心配はしていない。もとより安心を得られる業界ではないし、安心を得られるような規模の会社ではない。僕の持っている社会への不安というものは、まったく具体性を欠いている。政治や経済についての知識は皆無だ。僕の心配は、いつかこの会社の、エレベーターのないビルの階段から転んで落ちやしないかという些細なものだけだ。あるいは、天が落ちては来ないかと。や、これは期待か。

勉強は日常的にしなければ身につかない。だから日常的に行うことができないのなら、諦めるしかない。開かない参考書は頭には入らないし、時間がなくても読みたくなるような本からしか、僕は何かを得ることができない。僕は何事においても楽しくないと続けることができない。あるいは楽でなければならない。

僕には、だから嫌いなものがあまりない。僕は楽しくないことや楽でいられないことを無意識に避けているようなので、よほどのことがない限り壁にぶつかるということがない。しかし、壁にぶつかって行くことこそが勇気であり、成長であるとも思っている。とはいえ僕に壁を見つけることはできない。それを見ないようにして僕は生活している。

過去

現在と同様である。僕は過去の自分と今の自分が同じように感じられる。書いている文章も同じような感じに思えるし、やっていることも同じだと思う。過去の嫌な思い出を不意に連想するとき、僕はそれでも、今の僕とその過去の自分が違うものかと問い、何も違わないと思う。僕は今も昔も愚かなままで、今の自分を恥ずかしく思うのと同じように(恥ずかしく思わないのと同じように)、過去の自分を恥ずかしく思う(恥ずかしく思わない)。

だから過去について書くことは何もない。時間を無駄にしてきたってことも、できることがもっとあったってことも、すべて今の自分が今見るべきことで、目を逸らし続けていることだからだ。過去の自分を責めることは今の自分を責めることなり、楽をしたいと願い続けている僕にそれはできない。

何なら過去の自分を褒めたっていい。多くの時間を無駄にしながらも、ストイックでありたいというナルシスティックな願望を持ち続け、これを職業にするつもりはないと言いながら絵を描き続けてきた自分。創作活動や仕事を精力的に推し進める友人知人を妬ましく睨みつけながら、それでも自分にできることしかできないと諦めの言葉を吐き続けてきた自分。

もう諦めているのだと言いながらやり続けているっていうのは、それだけ自分に自信があるということだ。つまり「僕がモテないのは、僕の本当の心が理解されていないせいだ」と言うのと同じことだ。僕は「いつか」なんとかなるとは思わないが、そう信じて疑っていないのだろう。ところでこの「XXとは思っていないが、それを信じている」というような言い回しを僕はよく使うのだけど、これはまったく意味のない文章だと自分でも思う。思わない(考えない)ことを信じられるわけがない。でも気に入っているので今後もどんどん使っていきたいです。

未来

本当はもっと社会的なことを書こうと思っていました。筆の滑りも悪い。一文が短くなるときはやる気がないときです。慎重に書こうとしすぎて、文章を楽しもうという気がないのが自分でも分かります。もちろん、一文がある程度短い方が読んでくれる人にとってよいのかもしれません。とはいえ、僕の書く文章に人が何を期待しているかまったく分からない以上、僕が調子よく書けた文章を届けるというものさし以外にはかるものがありません。

ONEの『雨』と、今、外に降る雨を聴きながら、今後のことについて考えてみます。これはとても難しい問題で、前の文章で僕は「楽していきたい」と書いたので、それ以上書くこともないんです。今のままでいいと言えばいい。もちろん、

もちろん、このままでいい、そんなわけがないんです。

僕はもう嫌になるくらい嫌なんです。何とかしたい。どうにかしてくれ。どうにかなってくれ。空よ落ちろ。地よ割れろ。滅べ。砕けろ。嗚呼。僕の口癖と言えば「やれやれ」だなんてクールなものではなく、もっぱら「どうしてこんなことに」なんていう馬鹿らしいセリフだ。

どうしてこんなことになったんだろう。どこかで間違えたような気はしていない。最初から僕は斜めだった気がする。僕は斜めにまっすぐ進んでいるような気がする。とはいえ、とはいえ……

僕は、僕の願望は、特別でありたいという……

楽ができればそれでいい。

まとめ

考えるほどに、僕の中には暗い感情がなく、精神は正常だという考えが強くなる。もちろん、その暗い感情というものが僕にとっての憧れであるからこそわざわざこんな下らないことを言っているのだけど。

僕が文章を書く上で参考にしているのは数人の作家で、本文の内容を参考にしているのは昔見た他人の日記なのだと思う。もちろん無意識の話だ。もちろん。

僕は何とかして、何とかして彼らに近づきたくて文章を書いているのかもしれない。僕は自分の知識のなさを文章を書く上で一番嘆いているように思う。どうして僕は彼のように書けないのか。どうして僕は彼のように書きたいと思うのか。彼のようには絶対になりたくないのに。

僕の好きな文章は、僕の嫌いな人間からしか生まれない。逆だ。僕は気に入った文章の書き手を嫌いになる。きっと嫌いだろうと心に何度も書く。それをにやにやしながら行うことで僕は僕の文章を何とかして彼らに近づけようとする。

でも僕は自分が好きだ。自分しか好きになる相手がいないから。自分にさして不満もないし、生活も概ね上手くいっているような気がするし、今後も何とかやっていけるんじゃないかっていう淡い期待というか確信めいたものもある。だから僕は自分の文章を好きになることができない。このようなつまらない文章を書いていてはいけない。自分を慰めるのは楽しいし、そういう文章は本当に好きだけど、それは僕が僕自身を好きなのと同じで、僕の好きな文章ではない。僕の好きな文章は、僕がその書き手を嫌いになるような文章で、だから僕には書けない。

だから、僕は自分の文章が好きで、今後もずっと文章を書き続けいられると思うと、本当に楽しい。僕は文章を書いていられればそれでいいと思えることがある。絵を描いていられればそれでいいと思えることがある。とはいえそれは、現代社会では贅沢らしい。

僕は働かないで、お金か何か、生活に必要なものをすべて恵んでもらって、文章とか絵をかいたり、プログラミングしたりしたい。とにかく自分で稼いで、というか、自分で何とかして生きていくということがもうめんどくさくてたまらない。誰かカネをくれ。一生何もしないでいられるだけのお金を。そうすれば僕はずっと寝ていられる。好きなときに起きて好きなときに何かをして好きなときにやめられる。

何も成さなくても文句を言われない。なんなら、何かを成しても評価されなくていい。そういう生活がしたい。何もしたくない。

まじめなまとめ

そんなわけで、できれば僕はプログラマという職業を何年か続けてみて、できればそれなりの技術を身につけて、いくつかやりがいのあるプロジェクトを片付けるなどして満足して、笑って、多少のつらいことを我慢して、でも少しでもつらくなったら逃げだすんだということを心に誓って、趣味で少しは人に認められるようにかんばって、こっちは少しくらいつらくたって諦めないと心に誓って、

このままの気持ちでいたい。このままの気持ちでいるためには、このままではいけないけど、このままでいながらにして向上しなければ、僕はこのままの自分の気持ちを維持することはできないから、とにかく、できるだけ生活を、人生を、関係を、楽しく興味深いものだと味わって生きてきたいと、思う。


ここまで読んでくれたかた、ありがとうございました。さほど長い文章でもないけど、童貞が「自分大好き!」って叫んでいる文章ほど読み難いものもないでしょうから、お詫びしたい気持ちは山々です。でも、その積み上がった「山々」もまた僕の自慰からなる汚らわしいものだと思えば、僕のお詫びなどまったく、BUKKAKE好きしか喜びはしない類のクソですから、特殊な人だけが喜んで受け取ればいいと思います。すみませんでした。