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最後の音が響く。人が大勢いるとは思えないほどの沈黙。

そして一瞬あとに拍手が起こった。拍手は盛大ではないけれど、それは私たちの演奏の余韻が客席の彼らに残っているからだ。少なからずプロとして活動してきた自分にはそれが分かっていた。

横に目を向けると、リセがこちらを向いて微笑んでいた。透き通るような目で私を見つめながら、かわいらしい笑顔を私に向けている。それは彼女が学生であったころ浮かべていたような暗いものではない。本当に幸せそうな彼女を見て、私はふと、唐突に馬鹿馬鹿しい考えを思い浮かべる。

本当に、馬鹿馬鹿しい。でも、考えれば考えるほど私にとっては重大な問題のように思えてきた。さて、この気持ちをどうしたものか。

リセはフォルテールをケースに仕舞うと席を立ち、私の隣に来た。私はリセとそろって客席にお辞儀をして、舞台袖に引いた。私たちの初演奏は、こうして幕を下ろした。と言っても、ほとんどアマチュアの演奏会のようなものだから、私たちが捌けても後に何人か演奏が続く。私たちの残した微かな余韻も、きっと後続の演者によってかき消されてしまうだろう。もちろん、名前を覚えてもらうことだって、今はまだ難しい。

そんな悠長なことを言っていて、この世界で生きていけると思うの?

私の頭の中の私が言った。だけど、そんなことはどうでもよかった。だから私は、今もっと重要な問題をリセに打ち明けることにした。

リセの幸せな笑顔を見ていて思ったこと。感じたこと。考えたこと。彼女の幸せを願い、それと同じくらいに、私と彼女二人での幸せを願う、私の問題。

「どうして女同士では結婚できないんだろうね」

リセは一瞬でその意味を理解して、白く綺麗な肌を持つ頬を赤く染めた。

「一生一緒にいたいよ、リセ」

この手の言葉にリセは弱い。もちろん私も、リセに愛の言葉をささやくのが、止められないほど好きになっていた。

「私も一緒にいたいです。ずっと」

お返しにリセが精一杯の勇気でつぶやく。私は嬉しくなって、彼女の手を握る。

「結婚しよう、リセ」

「え? あ、はい」

私はたぶん、病気で頭がどうかしてしまったのかもしれない。あんなに自分しか信じるもののなかった私。一番嫌いなタイプであったリセを好きになるだなんて、妙なことだ。あるいは、それは妖精の呪いなのかもしれない。

「呪いとは、失礼ね、ファル?」

私の肩に座る妖精が抗議する。

「私はフォーニも好きよ?」

「はいはい。残念だけど、私はノーマルだからね。色ボケ二人組みは、二人だけで幸になってよ」

毎日練習にも付き合わせておいて本番は二人の舞台だからと歌うことを遠慮してもらったことに、多少ふて腐れる思いがあるのかもしれない。フォーニの声がどことなく刺々しい。

「フォーニさん?」

フォーニが見えないリセは私の肩の上と私を交互に確認する。

「あなたたち二人の幸せを祝福します、だって」

「見えないのをいいことに嘘付かないで!」

「リセとファルなら、きっとうまくやっていけるよ、だって」

「あ、ありがとうございますフォーニさん!」

「まったくもう……。べつにいいけどさ。でも夜の声はもう少し抑えた方がいいと思う。隣の部屋の人に聞こえてるんじゃない?」

フォーニがニヤニヤしながらシモネタを振ってくる。まったく彼女も、私とリセが愛し合っている事実に慣れてからというもの下品になったものだ。

「仕方ないじゃない。だってリセの声が……」

「え、あ、私の声?」

「フォーニが、リセの夜の声がうるさくて近所迷惑なんじゃないかって」

「夜の? 歌の練習ですか? 分かってはいるのですが、夜しか練習する時間が……」

「そうじゃなくて、あっちの声」

「あっち……って……あっ!」

ようやく気づいたのか、気づいたことを悟られるのが恥ずかしいのか、リセの顔が赤くなる。

「ファルもまるくなったと思ったけど、やっぱり意地悪は変わらないんだねぇ」

「だって、リセいじめると可愛い顔するんだもの」

「やや、やめてくださいよ、もう……」

可愛い泣き顔のリセ。

こんな幸せがあるなんて知らなかった。いや、きっと知ってはいたのだろう。ただ、それを感じることは一生絶対にありえないと思っていただけだ。事実、あのまま大人になっていたら、私はきっと知りえることなく死んでいたはずだ。音楽業界では、今よりももっと活躍できていたかもしれない。でもこの幸せのよいところは、そのような可能性などどうでもよいと思えるくらいに圧倒的なことだ。リセに触れるたび、においを感じるたび、しぐさにときめくだび、変わらない幸せが私の心を満たす。他に何もいらないと思える。

「さてと。結婚するなら、さっそくリセのお父様に了解してもらいにいかなくちゃね」

「!!」

飛び上がるほど驚いている。でも、彼女がなんと言おうと、私はリセとの関係を彼女の父に告げてやろうと決めていた。やはりあの男は好きにはなれない。これはリセをめぐる嫉妬心でもあるのだろう。

ほら、あなたの娘は、悪い男に引っかかるどころか、同性に心も身体も開いてしまいましたのよ。うふふふふ。そう言ってあいつを混乱させてやりたい。

「お、怒られます」

そうなったらそうなったで、どうとでもなる。べつにこの街を出たっていいのだ。

「私と結婚するのが嫌なの?」

「嫌じゃ、ありません……でも、お父様は、その」

「私との関係は隠しておかないとならないようなものなの?」

「そ、そんなことないです! 私は、私とファルさんは真剣に!」

真面目な彼女の性格は、放って置いたら損ばかりだろうなと再確認する。分かっていて、私はまた意地悪をしてしまう。

「じゃあ、リセからお父様に言ってね」

「え、ええ! そん、そそ、そんな、むむむ無理、無理ですすすす」

「ちょっと、リセのこといじめすぎ。さすがに可愛そすぎるわ」

フォーニが真剣にリセの心配をし始めた。

「でも私は、これでも足りないって思っちゃうの。リセがもっと困って、困って困り果てて、私しか頼れる人がいなくて、私に泣きついてくるのが見たいのよ」

「うう、フォーニさん。ファルさん酷すぎますよ。なんとかしてください……」

「あらあら、私が頼られちゃったけど、いいの?」

「あれ? 肩に虫がたかってる」

「ちょ、ちょっとやめ、やめなさい」

「気をつけなさい、私は嫉妬深いんだから」

「(ただのSなんじゃ……)」

フォーニは後でおしおきしておこう。

「お父様なんて言うかしらね。今から楽しみ」

「私は楽しくありません……」

「まったく、私と結婚するなら、もっと強くなってもらわないと」

「ファルさんが男役なら、私は女役でよいのでは?」

「口が悪いわね。後でおしおき」

「ご、ごめんなさい……」


そして、リセは案の定、そして私の計画通り父親に勘当された。もちろんそんなのいいことのはずはないけど、結局いつかはバレることなのだ、早い方がリセの心配が減ってよいだろう。

父親の影響力が弱いという街へ私たちは駆け落ちすることにした。リセは駆け落ちと聞くと目を輝かせた。リセの読んでいる本は、とにかくかっこいい男が出てきて、お姫様とかお嬢様とかをさらうみたいな内容のものが多いのは知っている。私も雰囲気を出してリセを喜ばしてみたりした。リセは想像以上にときめいているらしく、時折うっとりした顔で私の顔を見つめてくるから、クールな男役をするのを忘れてしまいそうになったりした。結局はリセの魅力に負けて、いつもどおり女らしく女のリセを抱いてしまったのだが……。

業界の有力者の影響力の弱い街とは、すなわち音楽に興味のない街だった。私たちはそこで小さなレストランの下宿に住まわせてもらい、そこで仕事をさせてもらった。早く店を閉めたときや休日には、街のメインストリートに陣取り、リセのフォルテールで歌った。

「誰も聞いてくれませんね……」

ひとり、使われていない旧校舎で歌っていた女が何を言っているのかとおかしくなったりもした。そして、たまにはリセにも歌わせようと思い、私は伴奏のためいくつかの楽器を始めた。リセは人が素通りしているときは歌えるのに、珍しく人が立ち止まったりすると(大抵は待ち合わせのためだった)、途端にペースを乱してしまう。そんな姿に笑いながら、彼女と手を繋ぎながら下宿へと帰った。

これでよかったのかとリセは度々私に確認するようになった。どうしていまさら不安がるのかと私が聞くと彼女は言った。

「今までだって不安だったけど、怖くてそんなこと聞けなかった。これでよかったか、私でよかったかなんて確認したら、目を覚まして目の前から消えてしまうんじゃないかって」

「それじゃあ、今なら私と離れてもいいってこと? 目を覚ましちゃうかもしれないじゃない?」

私はいつものとおり揚げ足を取るような問いかけをする。

「今は、嬉しいんです。リセが大事だよって、リセが必要なんだよって言ってもらえるのが。だから何度も確認してしまう。私は必要な存在なのかって。答えは分かっているのに」

私はベッドの中で、照れながら告げるリセの髪を撫でて胸に引き寄せて、力いっぱい抱きしめて、何度でも彼女に言う。あなたが必要だ、愛していると。