鬱病を患った人の文章に影響を受けた僕

中学生というのは厨二病と言われるように、異常なものや異質なものに興味を持ちやすい。他にもエロいものとか過激なものにも当然興味を持ちやすいが、まぁそれは置いておくとして……、僕は中学生のころからインターネットを始めて、そこで見た様々なものから多くの影響を受けた。それはやはり、どこか正常とは外れたものが多かった、かもしれない。

かもしれないというのは、べつに僕がそういった表現を異常だとかそういうふうにはあまり思っていないってことだ。変だとか、おかしいだとかっていうのは、僕にもともとある差別感情とか、人とコミュニケーションするときの前提として持っている「常識」とかのせいだろう。何にせよ鬱病だからと言ってその人間が何か気色の悪い怪物になるというわけではないのだ。もちろん日常生活で精神を病んでいる人間に遭遇すれば僕は恐ろしい思いをするだろう。異常なもの、異質なもの、そう感じてしまうものをそう感じないようにするには慣れが必要だ。

タイトルについてだけど……。特定の個人であるとか、そうでないとかはどうでもいいのだけど、とりあえず僕はそういった、心の病気を持っている人の文章というものに強く興味を持ってしまった。とは言っても、べつにそれは、検索して探したりといった方法で見つけたわけではない。たまたま見たサイトとか、当時もホームページをやっていたので、そのコミュニティーサイトとか、そういった場面で「すごい文章だ」と思って読み進めてみると、心を病んでいるということが極稀にあった。

僕は自分が特別であればいいと思っていた。すごく人の目を気にするくせに、変な目で見られたって構わないと思うほど特別でありたいと思っていた。変わった人だねと言われたいがために、変わったことを言うのが楽しかった。もちろん後悔はするけど、そんな僕の行動は誰も覚えていないのだ。実害は、夜、布団の中で思い出して「うわぁ……」ってなることだけだ。

僕のそういった特別でありたいという気持ちをあるていど整理してくれたのは(してくれているのは)、たしか臨時か何かで教えていた美術の先生だった。中学の頃授業で、絵に関する課題があった。僕はその当時も萌えっとした絵を描いていたけど、今よりもっと下手だった。とはいえ絵を描くのは嫌いではないから、そのときも、人に変わっていると思われたくて、変わった絵を描いた。

先生が言った言葉を僕は厳密には覚えていない。とにかくそれは、「変わった人間の表現というものはおもしろい」というものだった。僕もそう思っていたのだ。変わっている人間、もっと言えば、社会に、というか環境に適応できずに心を病んでしまった人間の表現はおもしろいのだと。そう思っていたということを意識させられてしまった。

僕は精神病の患者ならおもしろい表現ができるだなんて思っていたのかというと、そこまで直接的ではないと思う。ただそういうものに憧れてしまっていた。そういうものに憧れているんだね、ということを美術の教師に察されてしまったそのことが、なんとなく居心地悪かった。

僕は高校生になり、だんだんと、作品とその作者を切り離すという思想を痛く気に入り、もはや作者が病気であろうが何であろうが、どうでもいいという立場を取るようになった。そして大学に入学し、つい昨日のことのように思えるので現在と言ってもいいのだけど、大学卒業から最近は、作者への信仰心みたいなものを持ちたいと思い始めている。これは、今の僕が正しいと思ってやっていることではなくて、たんに日常の濃度が薄すぎて、それなのに何もできない自分が嫌だから、なにか大きなもの、信じられるものにすがりたいと思っているだけのことだ。


話が脱線した。え、それはどこからですか、と思う人は、最初からだと思ってくれて構わない。僕は世代論とかを論じたかったのに、いつの間にか自分語りになってた。

一世代上の年代に影響を受けるということは多いんじゃないかと思うのだ。そういうことを言いたかったのだけど、もうなんか文章を書く体力がなくなった。なんか顎が痛い。

僕は今、正しいと思ってやっていることがひとつもない。日常生活、趣味も、仕事も、人間関係も、どれもこれも正しいと思えない。もっとうまくやれたっていう言葉にとらわれている。僕は後悔をしないという言葉を否定し続けることでそれを頭に刻みつけてしまったのだ。すべてのことは後悔され、戻れることならあの頃に戻りたいと願い、現在を否定して行動を起こさない。僕はあの頃よりずっと悲観している。あの頃はずっと死にたいと思っていた。今も思っているが、あの頃のぼくは(あの頃の自分だなんて言うほど年取ってないのに!)、もっと哲学的だったし、もっとストイックだったし、……。

人は二十歳から老化するみたいなことを聞いたことがある。二十歳を過ぎて三年、もうすぐ四年だけど、たぶん僕は身体の衰えを感じているのだと思う。今の僕があの頃のような精神を持っていたら、きっともう死んでいる。天井の端を睨んで死にたいとつぶやき続ける夜を今の僕は陶酔のまま過ごすことはできないと思う。身体が弱い、というか、身体のせいにしているということそれ自体が今の僕の弱さなのだ。まぁ僕にもいろいろあったのだ。きっとそういうことだ。


僕はいつでも、もっとクールな文章を書きたいと思っている。もっと明確な主張があって、もっとまとまりがあって、もっと読みやすい文章を。だけど僕はいつもこんな文章を書く。書いている間は本当に自分に酔っていて、書き終わったらそれを見ないようにさっさと投稿して風呂に入りに行く。

僕はいつでも、もっとクールな文章を