村上春樹ばっかり読む理由

今朝怖い夢を見て起きた。どうしてそんな夢をみることになったのか、いろいろと考えることはあるけど、それはいわゆるひとつの罰なのかもしれない、怠惰な自分に対する自分からの罰なのかもしれない、そんな詮無いことを考える、日曜日の朝だった。

僕が村上春樹を読む理由は、前にも何度か書いた気がするけど、何度書いても減るものではないからもう一度書こうと思う。事実から。

たぶん最初に読んだのは「海辺のカフカ」だった。ハードカバーのその本を友人に借りた。当然まず1ページ目から順番に読み進めるわけだけど、あまりの意味の分からなさに、数ページ読んでは本棚に戻し、次読むときは冒頭も忘れているから、また最初から読んだ。それを三回か四回繰り返して、よく憶えていないけど、たぶん暇だったのか、一度に全部を読んだ。

まったくおもしろくなかったような気がする。その当時、たぶん中学生だったような気がする。とはいえ、じゃあ今村上春樹の長編を読んでみて、ああおもしろかったってなるか……、ならない。読んだ後、つまり読後感みたいなものよりも、僕は文章を読んでいる時の感覚が好きで村上春樹を読んでいる。というか、多くの人がそんなふうに読んでいる気もする。まぁ他人はどうだっていいんだけど。

他人はどうだっていいって書いたけど、もちろんこんな文章を書いているのは新刊が出てニュースに取り上げられているからだ。僕は村上春樹が売れている作家、しかもかなり売れている作家であることを読み始めてからしばらく知らなかった。そもそも売れているとか売れていないとかってことをあまり考えないし考えたくないって思っているから、これもまたどうでもいいことなんだけど。とにかくこの文章を書くきっかけとしては、多くの人が読んでいるこの作家の本を僕はどんなふうに読み始めたのか考え直してみたくなったということだ。

二冊目のことは覚えていない。たぶん海辺のカフカがよく分からなかったから、他の本も読んでみようと思ったのだと思う。

僕は本を読む人間ではない。読まない人間よりは読むけど、よく読む人よりは読まない。僕は多くの作家を知らない。古典から、現代小説にいたるまでの、ほぼすべての作家を知らない、読んだことがないと言ってもいいだろう。僕が今、読んだことのある小説の作家を挙げてみても、きっと十人くらいしか思い浮かばない。試しにやってみようか……

村上春樹時雨沢恵一赤川次郎浅田次郎宮部みゆき・サド・ナボコフドストエフスキーマゾッホ

ことわっておきたいのは、この列挙した作家のことを僕が特別好きだとか、特別嫌いだとか言うわけではないということだ。もちろん好きだから上げたということもあるけど、それはたんに名前を覚えていたというだけであって、他にも好きな小説はある。僕は多くの日本人と同じように人の名前を覚えることが苦手だから、こんなふうなラインナップになっているだけなのだ。なんの言い訳なんだこれは。

僕が村上春樹にこだわるには理由がある、のなら良かったのだけど、実際のところは理由なんてない。僕はいつも思うことがあって、それは、もっと幅広く多くの作家を意識しながら、まんべんなく読んでその中から自分の好きなものを見つけられたらどんなに素敵だろう、誠実だろうってことだ。僕はたまたま友達に借りた、しかもよく分からなかった本をきっかけにして、村上春樹ばっかりを読んでいる。

もちろん新しく開拓するのが面倒だというのもある。読んでみたらつまらなかったって思うのが一番嫌だから(それを嫌だと思わないのが読書家・読書狂なんでしょうね)、同じ作家の本ばかり読んでいるというところもある。というかたぶんそれが大体のところだ。

僕は話のタネに、大学の頃僕は図書館にあった村上春樹の全集を端から読んでましてね、なんてことを言うことがある。これは僕みたいな予防線を貼りたがる人間には悪くない方法だ。本をまったく読まない人からは、この人は本を読む人なんだなって思ってもらえるし(そしてたいてい本をまったく読まない人は、本を読む人を尊敬してくれる)、本をよく読む人からは、ああこいつはあんま深い人間ではないのだなと思ってもらえる。

もちろんそれで実際に他人にどう思われているかは、僕には知れない。それにしても、こうやって書いてみると思うのは、僕が本を読むということを価値としてとらえているのだなってことだ。これは本当にバカバカしいことだと僕は思う。本を読んで頭がよくなることはあるだろうか。

そうじゃなくて、つまり本を読んでいる自分とか他人が、それをもって勉強しているという気分になっているのが気にくわない、ふざけてるって思うのだ。そしてもっと、本を書いている人に誠実になれと、ただ読んで過ぎる文章として感じるのではなくて、きちんと端と端をつかまえておけという。

何らそんなことを考えずに普段は読んでいるし、今だって考えても見ないことを書いているにすぎないので、どうだっていいことなのだけど。ただそういう姿勢がやっぱりちょっと切なくもある。本気で読まない、ということを問題としているのだと思う。たぶん。

話はそれるけど、大体において僕は本気だなって思う。真剣とか本気とかがよく分からないっていうのもある。力の強弱がつけられないのか、TPOを知らないってことかもしれない。ようは、何かをする時に、今自分は本気だとか真剣だとかって思いを持たないということだ。もちろんサボりたいって思ったらサボる。ということはやっぱり僕は真剣になったことがないって結論の方がしっくりくるな。まぁこの話はいい。

そうやって僕は、大学への通学時間、電車とバスの中だけでも一日四時間というバカバカしい膨大な時間を村上春樹を読むことに費やした。あるいは携帯プレイヤーで音楽を聞くことに。カラオケは聴けば上手くなるというのと同じようなレベルで、文章は読めば上手くなると思う。そういうある種の経験則みたいなことを学べただけでも、村上春樹は僕にとって特別な作家になったと言える。

ただ何も考えないで文章を書くクセはいまだに治らない。中学生の頃に文章は適当に書くものなのだという間違った文章法を見つけてからというもの、僕はどんな文章に対しても考えないで取り組んだ。別の言い方をすると、自分が考えられる範囲でしか書かないということだ。それはだいたい原稿用紙一枚程度の範囲だから、こうやって長く文章を書こうとするとどうしても話は脇道にそれる。

もちろんそれでもいい。面白い文章ならば。何かオチをつけられるならば。何か伝えたい事があるのなら。でも僕にはそういうものがなくて悩んでいる。真剣に悩んでいる。僕が真剣になれるのは悩みとか不安とか、そういうものだけだ。

村上春樹は僕の悩みや不安を取り除いてくれはしない。勝手に話は進み、勝手に終わる。よく分からない登場人物が出てきて、普通の主人公が翻弄され(そこに共感するというのはあるかもしれないけど)、セックスして、パスタを湯で、井戸を覗き込むか、井戸から覗き込む。分からないからおもしろいというところはあると思う。

よく分からないものの方が長く楽しめると僕は思っている。でも完全に分からないと最初から楽しめない。村上春樹は文章がおもしろいし、読みやすいし、ただ読んでいるだけで心地よい。それはたんに文章の組み立て方、構造の話だ……と限定してしまいたいのだけど、そうもいかないのだろう、嫌なことに。村上春樹を読むことにある種の感情を持っていることは否定できない、とか曖昧なことを言って言葉を濁しておくけど、なんにせよただ読むだけでもおもしろい。こういう楽しみ方は、分からない人は分からないかもしれないなって思うこともあるし、誰でも分かるものじゃないかって思うこともある。詩とか歌詞のように、言葉の響きやリズムが要素として大きな位置を占めている表現があって、それの楽しみ方に近い楽しみ方を僕は村上春樹の作品に対してしているのだと思う。

とはいえ、僕は実際のところすべての文章に対してそのように向き合っている。僕は文章が読みにくければ、どんな内容の文章であろうと読む気がなくなり、書き手に悪意を向けることもある。とにかく最低限読みやすくなければダメなのだ。もちろんこれも僕の好みの問題だから、どんな文章がよいのか分からない。でも書いている内容が取り留め無くても構わないというのは思う。なにせ僕は自分の書いた文章が一番それに(自分が読むのに)適していると思っているからだ。自分自身が自由に書いた文章こそが、自分が読むのに最適だなんて素敵な事だと思いませんか? 僕は思いません。気持ち悪いです。

では、その村上春樹の分からないところってのは何なのか。それは僕にもよく分からない。よく分からないから、よく分からないので、長く読めるし、なんども読めるし、楽しい。そういう結論です。

ただひとつ思うのは、その分からなさが、独立した分からないモノって感じではない、というのが僕が楽しめる理由なんじゃないかということだ。ようは文脈がどうとかって話なんだけど……。村上春樹の文章は何気ない文章だと僕も思う。だけど中にはまったく分からない文章も出てきたりする。意味の分からない比喩とか、そのたぐい。そういったものを読み飛ばし(文章に酔いながらの読み流し) をしていくことで、よく分からない感がニュアンスとして溜まっていって、大筋の部分にそれが反映されて、僕はよく分からないままに読了する。それが快感なのだと思う。それが今の僕の最終的な見解だ。


何に対しても言える、という言葉を僕はよく使う。あらゆるものは繋がっていると言えば詩的だけど、ようするに言いたいのはこういうことだ。すべては僕の中に入ってくるのだから、僕が言えるようにしか言えない。あるいは僕に入るようにしか表現されていない。

世界をシンプルにしすぎているのが僕の悩みと不安の原因なのだな。と言ったわけで、外に出て運動するべきなのだ。