人生の目標の話

夜中に家に帰ってきて暗い部屋で、音楽を聴いていて、僕はこれからどうしたらいいんだろうって、すごく寂しい気分になった。

それで、このままたぶん書き続けていくと、また僕は自分を励まして、解決して、決心して、また、こうやって文章を書く夜までこの問題は棚上げされる。よく知ってるパターンだ。これは僕が何かを作りたいと思い始めた頃から変わらないループだ。そしてそれはループではなく螺旋であり、またそれはカッコよく上昇している、とは言いがたく、年齢の分だけ、選択肢が減る分だけ、落ちてる。

落ちることが悪いことばかりではない。種は地に落ちなければ、花になることはできないのだ。しかし、花と僕とは関係がない。また、植物は花を咲かすことが特別な目標というわけではないだろう。花が美しく見えるのは人間のせいであって、種を落とすのも、花を咲かすのも、あれらには決められた動きでしかない。

決められた動き。僕もその決められた動きをしているの、だろう。か。

哲学的な意味ではなく、もっと僕個人の現実の話だ。そういうことにしたい。しかし、そういうことにしたって僕はたぶんまた同じことを書くだろう。僕は自分を慰めたくなってる。励まして、明日からまた、気にしないように生きようとしている。

二通り考えられる。決心するか、忘れるか。どちらも同じだ。決心は人を帰ることはできない。しかし僕は、決心を新たにすることに古い僕を忘れ、そうすることで生きてこれたのだ。大げさだ。生きているのは、別段死ぬほどつらいことがあるわけではないってだけだ。

というわけで、決心と忘却は僕には、というか、誰にとっても同じだ。必要なのは決断だ。現実的な問題について、判断することが必要なのだ。

僕のこれは、現状を変化させずに、いかに僕自身を傷つけないようにするかっていう、それだけのものだ。

僕にはやりたいことがあって、時間もある。環境も悪くない。まったく悪くない。全世界的に見れば最高の環境に僕はいる。首都圏内である。

僕はやりたいことがやりたい。誰でも思うことだ。やりたいことがない人を除いてってことだけど。やりたいことがある人は、それをしたいのだ。いや、どうだろうな。

やりたいことがあると言っている人は、できない状況にある人間以外、さてどんな理由があるか。僕の場合は保身だ。つまらないものを作って馬鹿にされたくない……というのは嘘だろうと思う。僕は自分の作ったものに、がっかりしたくないのだと思う。

そんなことないのに。と、僕は僕を励ます。そんなことないのだ。僕は作るのが好きで、作ったものを愛することができるのだ。それがたぶんいけないんじゃないかって気がする。気がするというか、実際、実証として、自分のことなのだから分かる。それがいけないのだ。もちろん、それだけが問題ではないかも知れないけど。

僕は自分の作ったものを自分で貶すのが怖いと言いながら、実際はそのようなことが起こらない。起こらないことについて恐れることを人は何と言うか知っているだろうか。あいにく僕は知らない。

できない、やらない、怠惰な僕と、そうでない人間とは何が違うのだろうか。どうしたら僕は、できる人間になれるんだろう。できる人間に僕はなりたい。仕事、趣味、人間関係、そしてこのような、自分を考える自分。これらすべての僕ができる人間ならいいと思う。それが僕の目標になればいいのにと思う。でもそんなこと絶対に思えるはずがない。僕はできる人間になんてなれないし、なろうだなんて努力もしたいと思わない。

ぱらぱらと今まで書いた文章を見返してみると、「ない」という言葉が多い気がする。これはナーバスになり過ぎなんだろうか。いーや、そんなことはない。ないないない。僕は後ろ向きであり、個人的であり、怠惰であり、不誠実であり、今すぐ死ねるボタンが寝起きの枕元にあったら押せる人間なのだ。


押せないのだ。

たぶん僕は、死ぬボタンを押すことができない。これまでの人生を考えてしまうのだ。それを考えるから僕は、朝がつらいのだ。だからボタンを押せない。今までのつらいことを思い出して、怖くて押せないのだ。そんなものを押すくらいなら、自分でビルから飛び降りたほうがいいって、きっと思う。

たぶんそこで僕は心を入れ替える。入れ替えたつもりになる。そしてまたこの夜に返ってくる。やりたいことがいっぱいあって、もしかしたらそのときは、やりたいことができる時間もないかも知れないけど。状況はきっと同じだ。

僕はそうして同じ所に戻り、自分をこうやって励まして、忘れるように努め、完全に忘れられる勇気は持てず、そして。

何年目の暑い夏なのだろう。僕は夏を何度意識したのだろう。暑い。嫌な汗をかきながら、僕は夜中に文章を打つ。鬱が変換候補の一番目に来る。言うほど僕は鬱々しくはない。少なくとも僕自身は。

暑いからもういい。