夢と、あと決心のことについて

夢をみることがあるだろう。クリエイティブな職につきたいという夢が、多分僕が一番見た夢だ。僕は今二十四歳で、人生を語るには早過ぎる、または遅すぎるけれど、とりあえず僕も、そうやって人並みに夢を見て生きてきた。

でも僕は、さほどその夢を重要だと思ってこなかった。僕はいつも日常に怯えて、ただ怠惰な日々を過ごした。そして時々、それでもいいんじゃないかって、西日の暑い自分の部屋で、白くてくっきりした雲が空を流れるのを見て思った。

僕がクリエイティブな職に就かなかった理由、あるいは就けなかった理由は何なのかと考えると、それは多分、僕の創作への態度にあると思う。また、作りたいものと僕との関係だ。もちろん、一番の理由として僕には才能がなかったから、というのもあるけど、これもまた怠惰の言い訳でしかない。努力すれば何とかなったという意味ではなく、努力しようという意欲・情熱のなさ、という意味だ。

それで、僕の創作への態度っていうのは具体的に言えば、ものを作るというのがすごく個人的なことになっているっていうことだ。僕の中でものを作るというのはひとりで行うことだった。ひとりでいることや、僕が僕自身を特別であると錯覚できる方法が、絵を書いたり文章を書いたりすることだった。それは僕の持つ他の趣味にも言えると思う。作る側ではなく、それを受け取る側の自分もそうだった。漫画・ゲーム・アニメ・小説と、それらはすべが僕が僕を感じるために利用してきた。そんなふうに思う。

だから僕は人と創作について長期にわたり何かを語り合ったりしたことはないし、そうしようとすることに拒否感や、むなしさが募った。いや、これは正確ではなくて、たんに僕は人と何かをすること全般にそのような拒否感やむなしさを感じやすいのだ。だから何かを作ることに限らず、アルバイトなんかでも同じような思いを感じたことがある。つまり僕は人と何かをするのが、あまり好きじゃないんだ。というか、人と何かを作るということに抵抗がある。それは面白くないんじゃないかという危惧がある。

もちろん、そういったことは大体の場合気のせいだと思う。一定以上の規模のものを作るには人数が必要だし、仲間と暗くなるまで秘密基地を作るのはきっと楽しいことだ。僕が言っているのは結果論だ(上でも書いたけど、僕はまだ二十四歳だ)。つまり、僕は人と何かをすることが「嫌いなんじゃないか」 と思い込んでいるのだ。それが事実であるかそうでないかは分からないけど、その思いのせいで(おかげで)、僕はクリエイティブな職に就くことを人生の選択肢から外し続けた。


ここまで書いて、最初に書きたかったことと違うことに気づいた。夢の話をして盛り上がりがちになる月並みな自分を笑いつつ、月といえば今日は月が綺麗らしい。昨日は月見に駅前のスーパーまで片道十分の夜の散歩をしてきたりしてた。

何を書きたかったかと言うと、例えば僕のような怠惰な人間には経験があると思うのだけど、何日、何週間、何ヶ月も何もせずにいると、突然何でもうまくいくんじゃないかって気がして、すごくテンションが上がることがある。その気持ちは一瞬でしぼんでしまうこともあるし、ひと月くらい続くこともある。僕はまぁ、ひと月が限度だったけど。

そういったとき人は決心する。決心の内容は人によってまちまちだろうけど、それはほとんど夢に関すること、自分の将来に関することだったのだ、僕は。

それでまぁ、そんなふうに僕は十年以上何かを作るということに夢を託し続けてきた。その内容は色々で、このブログを見てもらえばその成果が分かる(あるいは分からない) と思う。

決心。決心というものがなんの役にもたたない、というのは経験から僕も学んだ。そのように言っている人間も多い。でもよく考えてみると、その決心が僕に与えてくれたものは、たしかに諦観だけではなかった。なかったのだ。たぶん。

これは三日坊主の話だ。三日坊主。何かしようと志して、それを三日で放棄するという、微笑ましい人間の習性である。

僕が言いたいのはひとつだ。そして僕が言いたい相手というのは僕自身しかいない。上に書いたとおり、僕の文章はまさに僕が僕のために書いているのだから。

僕が言いたいのは、俺が持っているほとんどが、三日坊主から得たものだってことだ。何かを作るというのが僕の目的だったから、つまりそれは技術のことだ。僕の持っている技術は、ほぼすべてが、そのわずか三日で得られたものにすぎない。

だから何だと言うわけじゃない。ただ、決心が無駄だとか、何の役にも立たないとか言っても、それでも僕を支えるこれらはすべて、その決心から得られたものだと、ちゃんと評価するってことだ。

習慣化しなければならないとか、日々の行動から変えなくては意味がないとか、そういう正論はもちろん正しいのだ。そんなこと分かりきっている。短期的なライフハックの類がすべてを変えてくれるとか、自分を変えてくれるなんてことはない。でもそこには何もないのか。そんなことはないのだ。

タッチタイプとはキーボードを見ることなくパソコンで文字を入力する技術(技能と言ったほうが正しいのか?) である。これは一般的に長くパソコンを使って文字を打たなくては習得できないと思われているが、これは実際のところ、集中してやれば数時間でできるようになる。キーが少し不自然に並んでいるせいで、その量が妙に多く見えることからそのような誤解が生まれていると思われる(適当)。数時間の数が人によってはまちまちだと思うけど、とにかく一日あればできるレベルのものだ。

ちょっとあまり簡単簡単言うと胡散臭いから、ただしを書いておくと、いちおうキーボードを触って文章を書いたことがある人であることが条件だ。キーを確認しながら文章を書くことができる人なら、タッチタイプを数時間で学ぶことができる。

タッチタイプのことから僕が言いたいのは、単純にタッチタイプが簡単に覚えられるってことと、何かを覚えることに、日の積み重ねがそれほど大事ではないってことだ。もちろん早く入力したいとなると、そこから訓練は必要かもしれない。

問題によって違う。でも問題によっては一日で片付く。一般的に長く習得にかかると思われていいるタッチタイプだけど、これは一日でできるようになる。なんで僕がタッチタイプを引き合いにだすかと言うと、僕は暗記物の勉強が苦手で、記憶に関する問題についてタッチタイプしか適切な例と経験を持っていないからだ。

三日あれば何ができるだろう。三日あれば、素晴らしい絵は書けなくても、どうやって書くべきかってことを学ぶことができるはずだ。僕は中学生の頃から絵を書いているけど(それで、このレベルとは!)、高校生の美術の時間に初めて、鉛筆をモデルに向ける画家の仕草というものの意味を教えてもらった。あれは――って詳しい説明を書こうと思ったんだけど、それが本当に正しい知識なのか分からないので、知りたい人は「デッサン」 などで検索して調べてください。僕も調べます。

これを調べるのにかかる時間は五分だ。タッチタイプを習得するのにかかる時間は数時間くらい、というのも僕の不確かな経験でしかないけど、ひとつの知識として知るだけなら一瞬だ。さて、三日もあれば何ができるだろう。体系的にその分野を知り尽くすのは無理としても、全体像をつかむこと位はできるんじゃないか。

だから三日坊主でも構わないと思うのだ。ここまで書いて僕は気がついた。これ前にも書いた。

数カ月に一度起こる決心の日、その後の三日間だけの知識で、僕は作られている。そして僕は概ね自分の知識に満足している(そんなはずない)。だから諦めずに決心しようと思う。三日も続けばいいほうだ。まぁ、そんなふうに考えていると半日も続かないんだけど。