これが病気でないと言うのなら

僕は自分が病気なんじゃないかと思うことがある。わけもなく不安に思うことは毎日だ。日常のこと、そして将来のことについて考えると憂鬱になる。歩いている途中に、ふと意味もなく立ち止まりそうになる。だけど立ち止まってもどうしようもできない。何かを蹴り飛ばしたいと思うことがある。ゴミ箱とか、ガードレールとか。だけどそんなことをしても足が痛くなるだけだ。実際にやったことがあるから知っている。壁を殴ったって不安は消えない。

不安は消すことができない。もしかしたらこの程度の不安感しかない自分の人生に感謝するべきかも知れないと、そう思うこともある。良い方向に考えようと思えばいくらでもそうすることができる。でもこの不安感が僕自身をすべて捉えてしまわないのと同様に、一日中ポジティブな気持ちでいることはできない。

これと付き合って生きろと言われているのか、それとも不当な人生だと抗うべきなのか。でもこれは僕個人の問題だから、訴え出る場所がない。相談することはできる。親兄弟や友人や、それが嫌ならカウンセラーなどに。

一時期、夜に上手く眠られなくて学校のカウンセラーに相談したことがある。僕はそのとき、やっていたアルバイトを辞めることで解決した。いや、もっと他の解決方法を取ったのかもしれない。ちょっとその時期の前後関係がよく思い出せない。けど、とりあえず僕は、ちょっとそのアルバイトに対して面倒だと感じている部分はあって、やりたい事もあったので辞めた。

辞めなければよかったという思いもある。卒業式の日に、そのバイトのメンバーと一緒に卒業を祝うこともできたのではないかとか。別段疎遠になったというわけでもないけど、やはり卒業まで続けたという成果を自分から手放してしまったことに関しては後悔している。

尊敬している人に「君は大丈夫だ」と言われたことが何度かある。そのことが僕にとっての自信であり、また負い目でもある。僕は本当に、そう言ってくれた彼らのことを尊敬していたのだろうか。心のどこかで侮辱していたのではないか。僕のような中途半端な人間に慰めとはいえお墨付きを与えるなんて、まったく見る目のない、センスのない奴らだと。そして、こういう考えそのものが屈辱的であることを分かっていても、それを考えずにはいられない。

僕は大丈夫なんだろうかと毎日考えている。朝起きるたびに僕は憂鬱になる。最近はそれが特に酷いような気がする。しかし、僕はいつもそう言ってる。最近は特に僕は不安だって。

学校を卒業するとき僕は、今こそ入学しようとする過去の自分自身に向けて、何と言ったか。心配することはない、大した問題ではない、そう言ったのではないか。そう言ったのだ。僕はたしかに、新生活を迎える自分に、新年を迎える自分に、新しいことを始めようとする自分に、とにかく大丈夫だと言わなかっただろうか。そう言っている、たしかに。

だから今の自分も未来の自分に言われているはずなのだ。心配することはない、大した問題ではないと。

もちろんそれは、今の僕が心配して、重要な問題だと不安に思っているからこそだろうと反論することもできる。石橋を出来る範囲で叩いて渡ったのだ。なんとかして向こう岸に渡れた運の良いおまえは、僕のこの不安感の上に立っているんだぞ。とか。

どっちを取るべきなのだろうか。僕は不安にふるえるべきなのか。それとも未来の自分を信じて不安感を取り除く努力をするべきなのか。この二択は、先ほどの二択よりはたしかに具体的になったが、しかし状況は同じだ。僕の不安感は消えないだろう。

僕がこんなに、根拠のない不安や緊張に苦しみながらも生きてこられたのは、それを楽しもうという気持ちがあったことだということを僕は忘れちゃいけないと思う。他人の前で何かを発表するときの不安と緊張を僕は楽しく感じられる。もちろんそれには条件がある。十分な練習が必要だということだ。十分な練習がないのに本番を迎えなくてはならないとき、僕は失敗する。十分な練習だけで本番が成功するかというとそうでもないけど、十分に練習することで僕は納得することができる。きちんと後悔することもできるだろう。だけど、練習もないままに本番で失敗したら、何を恨めばいいだろう。僕はそのとき自分を恨むことができない。練習したのに失敗した自分は恨めても、練習せずに失敗した自分に対しては後悔や恨みの感情を持つことができない。そのような怠惰な自分を責めることが僕にとって大きな痛みだからだ。痛みになるような気がするからだ。

だから僕に人生の練習を十分にさせて欲しい。させてやっただろう、と神様が言っている気がする。僕は概ね神様を信じていて、祈ったり感謝したりしている。具体的な宗教に関しても、気に入ったものがあれば入信してもいいと思っているけど、めんどくさいから自分から調べようとは思わない。とにかく、僕は神様に、いくらでも時間をやっただろうと嘲笑われている気がしてならない。神様じゃなくても、過去の自分とか、未来の自分とか、もちろん今の自分とか、周囲の人間とかにも。とにかくおまえは怠惰に過ごしてきただろうと。練習の時間はいくらでもあったし、おまえは納得いかないだろうが練習もしただろうと。

だから僕は死にたいとつぶやいてしまう。足らないのだ。まだまだ足らない。練習が足りないし、本番を楽しめるほど余裕がない。ぼうっとしているとすぐに次へ行ってしまう。目をつぶっていたいけど、それもできない。ただ絶え間なく不安感を与え続けられる。耐えられない。きつい。

シンプルに言えない問題というわけじゃない。僕はずっと同じ事を言い続けてきた。問い続けて、この日記も何年間分が溜まった。一番シンプルに言うと何だろう。きっと分析する分野によって違うのだろう。また、生き方としてこれは正しいのかも知れない。つまり、これは問題ではないということだ。問題ではない。これはしっくりくる。僕にとってそれが普遍的なテーマであるとするならば、やはりこれはすべて問題ではない。これ、というのは僕のすべての文章だ。人生でもいいけど、とにかく、問題じゃない。

具体的に言うと、僕がこういうふうに感じている不安感ってのは別段問題のあるものではなくて、通常の人間的感情だってことだ。

もちろん、その説明で納得できないからこうやって文章を書いてる。いや納得はできるけど、納得したって嫌な気分はなくならない。嫌な気分は付き物だと、朝起きるのがつらい人ってのは、朝起きるのはつらいものなんだって、そういうあたりまえのことを言われたってどうしようもない。

ちょっと、次に何を書いても今まで書いたことへのループになる気がするので今日はこのくらいにしておきます。とにかく、僕は毎日、なんか嫌な感じだなって思って起きてます。今はそんなでもないけど、きっと明日の朝起きればまた嫌な感じだなって思いながら目覚めます。僕はこれを何とかしたい。こんな長文を書いている場合じゃなくて、目覚めを快適にする努力を僕はするべきなんだろうと思います。それが現実的で具体的な結論です。

タイトルにについて。僕は自分がおおむね正常だと思っているけど、ちょっと精神的にも肉体的にもストレスに弱いところがあると思う。結局このへんを改善するためには運動しかないのかなぁ。