忘れたころに、なにごとも

Kanonの舞を題材にしたショートストーリーです。http://homepage1.nifty.com/itachin/compe/sscompe1/ss/00155.htm として応募した黒歴史を友達が発掘したので、せっかくだからとリメイクしました。



  『忘れたころに、なにごとも』

  
  ふと突然に、忘れたころにやってくる。
  いつだってそう。
  なにかが起こるとき、それが起こることなんて予想できない。
  そう、いつだって。


「舞……、眼が怖い」
「……なに?」
 舞が首を傾げる。作業を中断されて苛立っている顔だ。邪魔するなという圧力を感じる。
「いや、ほら、そんな真剣な顔でされると、痛みが増すっていうかー」
「意味が分からない。早く消毒しないとバイキンが入るかもしれない」
「そんなに深い傷じゃないしさ、消毒までしなくても、いいんじゃないかなぁと思うんだよ俺としては――」
 俺の話を聞かずに、舞は構わず、俺の膝小僧にできた擦り傷に、消毒液をつけた綿を押し当てた。
「く、あー、痛い。痛い痛い痛い。こんな痛いもんだったか消毒って?」
「祐一うるさい。手元が狂うかもしれない」
 分かっている。これは、おそらく舞の意趣返しだ。さっきは俺の怪我を心配して悲しげな顔をしていたが、やっぱり怒っているのだ。
「祐一は鍛え方が足りない。雪道で足を滑らす人なんて、この街にはいない」
「それはさすがに言い過ぎだろ」
「……冗談」
「分かりにくいな」
「祐一が、眼が怖いって言うから……」
 ……。


 さかのぼること十分前。俺はいつもの通学路を歩いて学校へ向かっていた。例のごとく名雪は朝練、よくあの寝坊グセで、毎日遅刻しないで学校に行けるのか不思議だ。
 そう言う俺は今まさに遅刻の危機にさらされていた。時間はギリギリ、一時間目の授業には走れば間に合うかもしれないというレベル。朝のホームルームは絶望的だろう。
 さらに、昨晩降った雪で、道路には通りにくい場所もある。さすが雪国だけあって公道の雪はきれいに除けられているが、それでもすべての雪を道から消し去ることはできない。足元に気をつけて歩かなければならないから、走って学校までというわけにはいかない。
「これは一時間目も諦めるしかないか」
 そんな考えを口にすると、その瞬間に気が楽になる。それほど急ごうという気持ちもなくなる。これが諦めるということ、大人になるということだ。うんうん。
 人生の諦観を悟りつつ道を空いていくと、見知った後ろ姿が見えた。
 舞だな。
 長い髪にリボン。妙に姿勢がよく、くっきりはっきりした歩き方。じつに舞らしい歩き方だ。
 舞の奴も遅刻か。まったく、遅刻確定だというのに急ごうという気配もないとは嘆かわしいぞ。俺は舞に普通の学園生活をいとなみ、ぜひとも人並みの幸せを見つけて欲しいと思っているのだ!
 そういったわけで俺は、舞に気さくに声をかけ、遅刻仲間同士、学校に走って急ぐという、一般的学園生的日常的情景を目指し小走りに、その後姿へ近づいたのだった。
 いや、しかし待ってみて欲しい。ここでふつうに舞に声をかけてもいいものだろうか。俺は舞に何を求めている? 舞がどうすれば普通の女の子になれるか、もっと真剣に考えるべきなんじゃないか? 変な口癖を教えてみたって、それは表面的なものでしか無かった。人間、大切なのは内面だ。そして人間の内面とは、どうやって形成されるのか。
 答えは簡単だ。そう、経験である。
 女の子的経験とはなんだろうか。陳腐だがここは「かよわさ」 ではなかろうか、と俺は思う。短絡的だが、しかし舞に足らないものの最たるものがそれだ。夜の校舎で剣を振るい、何なのかも分からない怪物なんかと戦っている舞には、かよわさなど月までの距離ほど遠い属性だ。
 そんなわけで、俺は舞を驚かすことに決めた。
 唐突だって? そうさ。何事も、物事とは唐突にあらわれるものである。そうでなければ意味がない。驚かない。経験にならない。
 俺驚かす、舞驚く、そして――


 こそこそ……こそこそ……せーのっ!
「わっ!』
「きゃあ! ……って、ゆういちー!? もう、びっくりさせないでよっ」
「ハハハ、悪い悪い。でもおまえ、こんな時間こんなとこ歩いてるなんて、寝坊かぁ?」
「もう、そんなの私の勝手でしょ! あんたには関係ないんだからっ!」
(あなたのこと考えてたら、ついつい夜更かししちゃった、なんて、そんなことぜったいに言えないようっ!)


 ……まぁ、ないな。
 いやしかし、これに近いことはきっと起こるはずだ。いささか何者かの意志(神的な何か) を感じないでもないが、俺は決めたことは曲げないのだ。そう、かわいい後輩が冬のただ中、アイスを食べようと言えば俺は食べる。俺はそういう男だ!
 ではでは、いざっ!


 コソコソ……コソコソ……せーのっ!
「わっ! って、うおっ!!」
 世界は回転、
 両足は在るべき地面と重力を求め空転、
 振り回した片腕をガードレールに打ち付け、
 無様に回転した身体、
 ……かろうじて、膝を打ち付け、そこで停止した。
 って、超、痛い!
 驚かすはずだった舞の後ろで、俺は滑って転びかけ、まるで女王様に謁見する騎士のような格好になっていた。右ひざを立て、左ひざを地面に付けているが、その左足は痛みにジンジンと震えていた。横のガードレールに打ち付けた腕も痛い。これのせいで転ばずに済んだが、もしかして、すなおに転んでおいたほうがよかったんじゃないか?
「祐一、なにやってるの?」
 これでたとえば、振り向いた舞の前で、片膝を付いた忠実なシモベのような俺がいたとすれば、少しでも誤魔化しが利くだろうが(そうか?)、あいにく俺は転ぶのをこらえ半回転してこのポーズに到達したのである。完璧に逆方向だ。
 舞の声は、だから俺の向いている正反対から聞こえてきていた。
 振り向くのが怖かった。無様!
 というか、この状況をどう説明すればいいんだ?
「……祐一は、驚かすために近づいてきて、驚かす動作を取るため両手を上に挙げた」
 舞が突然説明を始めた。しかも当たっている。
「でもその動作のせいで姿勢の均整を失い、注意を怠っていたせいで足元の雪の固まりにも気がつかずに体制を崩した。何とか体ごと地面に転がることは避けられたが、腕を横のガードに打ち付け、膝を強く打つことで現在の状態に静止した」
 淡々と、俺の状況を俺の認識以上の正確さで、舞はすべて言い当てていた。見ていなかったはずなのに。俺は無様に言い訳することも許されないということなのか……。
「人を驚かそうとするなんて、よくないこと」
「悪かった……」
 正論を諭されうなだれる俺。しかし、そんなことより打った膝が痛い。立てぬ。
「驚かそうとしたのは悪かったと思う。謝る。だからちょっと、手を貸してくれないか……?」
 俺は痛む身体と羞恥心をとりあえず脇に追いやって、助けを求めるために舞の方へ振り向いた。
 がしかし、舞はすでに立ち去り十メートル先ほどを歩いていた。うおお。
 くっそ、薄情だぞ舞。そんなことなら俺にも考えがある。佐由理さんに、舞が怪我した俺のことを助けなかったってチクってやる。佐由理さんに怒られればいいんだ!
 痛みでおかしくなった思考を現実逃避という脆く崩れやすい足場にして俺は、ようやく踏ん張り立ち上がった。こんな体勢でひとりいるわけにもいかない。
 しかしこれは痛い。捻挫だ。これは捻挫の痛みだ。雪の塊を踏みつけたとき、足を捻ったのだ。そうか、それで俺はバランスを崩したんだな。最後に打った膝が痛くて足首の痛みに気がつかなかったが、ちょっとこれはふつうに歩けそうにない。
 助けて欲しいと叫ぶのは簡単だ。でも舞は、驚かそうとした俺を怒っている。俺も怒られた手前、そのすぐ後に助けを求めるのも男としての自尊心が邪魔をする。ついさっき転んだ瞬間に謝りながら助けを求めた自分自身のことはこの際、神棚の上にでもうやうやしく両手で上げておこう。
 しかしどうしたものか。


 片足の具合を見ながら、俺はガードレールに軽く腰をかけてボンヤリしていた。ジンジンと捻挫した部分が疼く。少しでも動かすと、思わず声が漏れそうなくらい痛い。
 通行人が、不自然にその場に留まっている俺を見て過ぎ去っていく。声をかけてくれる人はいない。捻挫で歩けない人間なんて、外見的には特に変わったところがないのだ。とはいえ、捻挫で歩けない人間だと分かっても、声をかけてくる人間なんていないだろう。俺が佐由理さんのような、見るからにか弱い少女であれば、ただ佇んでいるだけで声をかけられるだろうが、あいにく俺は俺であり、そんな俺はこんな時間に学校もいかず歩道でボンヤリしているアホにしか見えまい。
 まったく、まいったものだ。そろそろ舞は学校に着いただろうか。謝っても、振り向きもしないくらい怒っていたからな。悪いことをした。舞の性格から考えると、不意打ちとか騙し討ちみたいなことは好きそうじゃない。あとで許してくれるといいが。そっちのほうが心配だ。
 さてしかし、こんなところにいてもしかたがない。学校に行って、保健室で湿布と包帯でももらおう。湿布と包帯があれば捻挫くらい何とでもなる。
 俺は片足を庇いながら歩き出そうとした。雪に気をつけて、足元に注意する。
 痛みに耐えながら数歩だけ歩くと、地面が支配する視界に突然、誰かの足が現れた。足元に注意を向けすぎて、前方のことに気がつかなかった。
「おっと、すいません」
 とっさに謝り、痛みをこらえて、できるだけすみやかに歩道の端による。
 しかし、顔を上げるとそこには舞がいた。
「ごめんなさい、祐一」
 そして意外にもそれは、涙目の舞だった。
「祐一が、歩けないほどの怪我をしてるなんて、知らなかったから」
「おいおい、泣くようなことか? ちょっと足を捻っただけだよ、心配すんな」
「でも、私は動けない祐一を放って行った」
「まぁ、俺が悪かったんだし、自業自得だろ」
「……」
「それに舞は俺が歩けなくなったってこと知らなかったわけだし。そうなんだろ? 歩けなくなったって言っても、ただの捻挫だ。放っておけば治る」
「でも祐一は、心細かったはず」
「……」
 なぜだか俺は、俺に同情する舞にたまらなく切ない思いを感じた。置いて行かれること、忘れられること、ひとりで痛みに耐えること、そんな切ない感情が思考を支配していた。
 それはまるで忘れていたことを思い出すような感覚だった。忘れてはならないことが、何かあったはずなのに、それが何なのか思い出せない、そんな気持ちだ。いったい俺は、何を忘れているというのだ。
「そんな泣きそうな顔するなよ舞。俺は平気だから。むしろ、佐由理さんが怪我した俺を心配して、いろいろお世話してくれるだろうってことを思って、今からハッピーなくらいだ」


 それほど俺が重症でないのが分かったのか、先程までの切なげな顔をやめて、舞は俺に肩を貸してくれた。
 肩を借りて、足をかばい、かっく、かっくと不規則な歩行を繰り返す。やがて校門が見えてきて、俺達は保健室へ向かった。
 保健室には誰もいなかった。エアコンか何か、暖房だけが付いていた。保健室の先生は一時的に退席しているのだろう。
 そして俺はそこで、舞にケガの手当をされていたのだった。


「祐一は運動不足。だからあんな事で簡単に怪我をする」
「その話はさっきもしたろ。そんなの俺が一番よく分かってる」
 コケた瞬間よりも痛いかと思われる、膝の擦り傷の消毒タイムが終わり、俺は湿布した足に包帯を巻かれていた。
「なんか包帯巻くのが妙にうまいな」
「……慣れてる」
「包帯巻くのがうまいって、いったいおまえの生活に何があるんだよ」
 俺は冗談めかしてそんなことを言う。しかし、包帯を巻くのがうまい理由なんて、そんなことはアレに決まっている、夜の魔物、舞の敵、俺の敵。
「なぁ、あの怪物は舞が倒さなくちゃならないものなのか? 誰かに頼めなかったのかよ」
 そう尋ねた瞬間に、舞は少しだけさっきと同じ表情をした。悲しげな表情、誰かを独りにしてしまったことを悔やむ、そんな表情だ。
 俺は目前でしゃがみ込み、丁寧に包帯を巻く舞の頭に手をのせ、できるだけやさしくなるように撫でた。舞がそんな俺を無表情で見上げる。
 もしかしたら、彼女は逆に「独りにされてしまった」 のだろうか。そう考えると、何故かとてもつらい気持ちになる。どうしてだろう。
「舞、なんかメシ奢ってやるよ」
 ……いつも夜に奢ってるけどな。
 俺はどうしても、舞に何かしてあげたくてたまらない気持ちになる。初めて夜の校舎で出会った時からそうだ。この感情は、何なのだろう。
 彼女の取り残されたような瞳。他人を寄せ付けない、寂しげな表情。月明かりだけの学校の廊下に佇む、孤独な少女。少女の檻。
「……牛丼」
「よし、分かった。死ぬほど食わせてやろう」
「そんなにはいらない。……三人前で充分」
「それは……、冗談で言っているのか?」
「ぽんぽこたぬきさん」