日常に積もった奇跡

 キッチンタイマーが鳴った。7分という時間は、このパスタを完全に茹できるには2分ほど短い時間である。あとの2分間分を使って、パスタをソースに絡めるのである。私は彩菜の『風の辿り着く場所』を口ずさみながら、トングを使って手早く鍋からパスタを取り出し、隣のコンロのフライパンにそれを入れた。
 フライパンを軽く振りながら、菜箸でトマトソースとパスタを絡めていると携帯が鳴った。もちろんパスタをソースと絡めるなどという、あまりにも大切な仕事の最中では、携帯電話の着信など気にしている余裕はない。つねにマナーモードに設定してある携帯電話が、朝目覚めたら虫になっていたという不幸な男の嘆きのような音を立てて震えているのを横目に確認しつつ、私はフライパンからパスタを一本つまみ上げると口に入れて硬さを確認した。
 私はフフンと自らの料理に得意げになると、その一人分の昼食をいくぶん大きな平皿に盛りつけた。ソースはちょうどいい具合にパスタの茹で汁と合わさりとろりとして、よくパスタと絡んでいた。完璧な仕上がりであろうと私は満足し、それをテーブルに持っていく。トマトソースを作るときに使い、パスタを茹でる時間に少しずつ飲んでいたワインも一緒に抱え、私はテーブルに付くと、よくやくそこに置いておいた携帯電話の存在を意識する。
 手にとって液晶を確認すると、そこには友人からの着信履歴が確認された。
 私は目の前の完璧な昼食を楽しむべきか、友人からの着信を優先するべきか迷った。その友人は私の携帯メールのアドレスも知っている。メールで用件が済むなら、そうする人間であることも知っている。さてさて。
 良いパスタは時間がたっても美味しい。これは母の言葉だ。たとえパスタがソースを吸ってしまったとしても、なお味が落ちないのが、良いパスタなのだと。私はその意見に賛成できない。パスタそのものの良さを引き出すには、完璧な湯で時間というものが何よりも不可欠なのだ。犬ぞりレースに賢いリーダー犬が不可欠なように、それは真理なのだ。
 そして、私は着信履歴からその友人に電話をかけた。母の言葉に賛同したからではない。意味なんてない。
 意味なんてない。意味もなく私は完璧なトマトソース・パスタの完璧さを犠牲にした。つまりそこには、その判断には、私を超えた何かが存在したのだ。意味なんて、ない。そして、意味のない行動とはつまり、一番特別な行動なのだ。
「……もしもし」と、私は言った。
 電話がつながった瞬間に何故か耳鳴りがした。しかし意味のある応答がない。
「……もしもし」
 私は何度も同じ言葉を繰り返した。「もしもし」「もしもし」「もしもし」。
 そして、電話が切れた。
 さて。
 私は携帯電話を閉じると目の前の皿に視線をやった。一応折り返しの連絡はいれたのだ。友人も私の責任を問はしないだろう。そして私は、そこにフォークがないことを知った。フォークを取りにキッチンに戻らなくてはならない。
 私が席を立ってキッチンへ行きフォークを取って戻ってくると、また電話が鳴った。私は迷うこと無く電話に出た。しかし本当は電話になんて出たくなかった。私はお腹が空いていたし、これ以上完成した料理を放置しておきたくなかった。私は冷めてしまった料理が、先端で固まって使えなくなってしまった瞬間接着剤と同じくらい嫌いなのだ。
「……もしもし」
「もしもし。今大丈夫?」
「パスタが伸びてしまうから、手短にお願い」
「……」
「手短に。できれば後にして欲しいのだけど」
 やっぱり耳鳴りがする。私は携帯電話で伝えられる音声の周波数で、人間に耳鳴りを起こさせることができるのかと理系的な疑問を思ったが、とくにその問題を解く方法も見つからなかった。それに、とくに興味もない。
「私ね、今裸なの」
「風呂上り?」
「ねぇ、悪いんだけど、黙って聞いてくれないかな」
「ふむ」
 こんな奇抜な電話をしてくるような友人だったろうかと私は首をかしげた。そういえば、さっきからこの友人の声を聞いていて、本当に私の思うその友人なのかという確証がどうしても持てない。声を聞けばたいてい、顔も思い出せるものだ。違う。顔は知っているのだ。思い浮かべることもできる。ただ、電話の声とその友人がうまく結びつかない。
 私は、友人の名前を確認した。
「あたりまえじゃない。もしかして携帯変えたの?」
 携帯を変えたから誰からの電話か分からなくなっているのではないかという当然の疑問に、私はノーと言う。
「とにかく、ねぇ、黙って聞いていて」
 このまま切ってしまおうかと思ったが、様子がおかしいのは気になるところである。私はもうしばらく、彼女に付き合うことにした。
「私裸でね……濡れてる」
 最後に何と言ったのか聞き取りにくかったが、濡れてると言ったのは間違いなさそうだった。
 そして彼女は風呂上りで濡れていると言っているのではなかった。主語がなく、そしてぞっとするほど気持ちのこもったため息が、彼女のどこが濡れているから如実に語っていた。如実に
「勝手にね、濡れちゃってる。触ってないのに。ねぇ、どうしてだと思う?」
「知らないけど、欲求不満ならひとりでオナニーでも何でもしたらいいじゃない。これは、あなたの趣味なの?」
「黙って聞いてって言ったでしょ」
 ……さて。
「じゃあね、また明日」
 私は電話を切ると、少し冷めてしまったパスタを食べ始めた。母の言葉に賛同はしないが、少しくらい冷めたってパスタは美味しいものだ。