ハンバーグ作ったけど

ハンバーグを作るのは始めてだったのだけど、自己流でもなんとかなったので、作り方と問題点をメモしておく。

材料。挽肉・玉ねぎ・卵・小麦粉・胡椒・塩。すべて適量。挽肉は安ければたぶんなんでもいいと思う。牛と豚の奴が半額だった。

材料の下ごしらえ。玉ねぎをみじん切りにする。鼻にティッシュを詰めると涙が出ない。今回は生で入れたけど、飴色になるまで火を通すと甘みが出るらしい。しかしめんどくさいから次回もやらないと思う。

タネを作る。上記材料をすべて混ぜる。ビニール袋を手に装着して、手が汚れるのを避ける。まな板とか平らなところにラップを敷いてサラダ油を塗って、そこに適当に丸くしたタネを置く。

タネは真ん中をくぼませるらしい。やってみたけどフライパンに移すときに形が崩れた。今度やるときは丸くするだけにして、フライパンに入れてからくぼませることにする。

焼く。熱したフライパンに投下。

焦がさないように中まで火を通すのが難しいらしい。いいかげん賞味期限が怖い挽肉を使ったので生焼けは避けたい。ネットを調べる。蒸し焼きにすれば中まで日が通るらしい。

蒸す前に焼き目をつけておく。

タネがじゃっかん賞味期限超過の気配(新鮮でない生肉のにおい)がするので、冷蔵庫にあったワイン(ロゼしかなかった)と水を入れて蓋をして蒸し焼き。しばらく待つ。

全体的に生っぽい感じが無くなったら完成。中が生だと怖いので、切り開いて中を見る。赤かったらレンジでチンするつもりだった。しかし思っていたよりちゃんと火が通っている。

反対側に焼き目を付けるためひっくり返したけど、蒸し焼きだけで全体に火が通るから、面倒なら必要ないと思う。

タレを作る。焼いている間にタレを作る。好きなタレを作ればいい。何ならポン酢だけでもいいし。今回は家にある調味料を適当に使った。でもタレにもう少し凝ってもよかったかも。

以下問題点。

ジューシーさが足りなかった。でもこれは別にハンバーグ自体に求める必要は無いかも。美味しいタレをつければ肉なんてたいていうまくなるし。今度は大根おろしで和風ダレとかにしたい。

完成品の写真を取るのが億劫だった。iPad で写真とってtwitterかなんかに上げたけどブログに載せるの億劫だし twitpic のリンク探してくるのも億劫。とにかく明日から仕事だと思うと何もかもがめんどくさい。死にたい。解決策は仕事を辞めること。あるいは地球爆発。


たまに手間のかかる料理とかすると何か書きたくなったり写真載せてみたくなったりするけど結局めんどくさいてやらない。そういうところがダメなんだと思う。あとハンバーグ程度で手間がかかるって言ってるところもダメ。ジャンル的には簡単料理だと思う。でもタネ作ったボウルとか洗うの超めんどくさい。お湯に浸けて置いたけどたぶん一週間は放置すると思う。死にたいし、なんていうか死にたい。

みんなも料理しよう! 楽しいよ!

とくに意味のないことを書くこと

冷凍ウィンナーが安かったので買ってきたけど、レンジでチンして食べたらけっこうしょっぱかった。何か料理に使うのが良いだろう。とか。

そういう意味のないことでも書いていきたい。

意味のないことと言えば、そういえば僕はもうどのくらい、創作文を書いていないのだろう。ちょっと思い出せないくらい書いていない。イラストだって同じようなものだ。やらなくちゃいけない、とは思わないけど、あれだけ信じていたものをこうやすやすと手放してしまえる自分に、ちょっと幻滅する。

どうだろう? 本当に信じていたんだろうか。でも、書くのが楽しかったというのは本当のところだと思う。今だって、こうやって文章を書いていておもしろいと思う。比較的制限の少ない場所で、こうやって文章を書くのは自由って感じがして楽しい。

お話を書きたいって久しぶりに思う。書きたいと思うなら書けばいい。こんな所で、こんな文章を書いていないで書けばいいのだ。でも書けない。書かない。書こうと思えば書けると思えた頃を忘れてしまった。何もないような気がする。何も書けないような気がする。

どんな話を書きたいんだろう。やっぱ百合かなぁ。女の子同士の恋愛ってすごくワクワクドキドキする。書きたいなぁ百合。でも書けるような気がしない。それにきっと書かない。むなしいし悲しい。どうしてこんなことになってしまったんだろう。

このまま歳を取るのかと思うと、とても憂鬱だ。何もできない、何もできるような気がしない。問題は、何かをしたいと思うこの気持ちなのだろうか。何かをしたいって思わなければ、何かをしなければいけないって思いからも解放されるんだろうか。

理解できない本を読むこと

ランダムに本のページを開いて、そのページ中に理解できない単語が何個以上あったら、おまえにとって難しすぎる本だから買うな、みたいなことをTumblrかなんかで見た記憶がある。これから学習しようというのに、知ってる単語ばかりしか出てこない本を買う意味あるのかっていう反論もできるんだけど、とりあえず、そこはどうでもいい。

難しい本、理解できない本を無理やり読み通すっていう行為は、もしかしたら時間の無駄なのかも知れないけど、まったくつまらない退屈なだけの行為ってわけではないと思う。もしかしたら楽しさだってあるんじゃないかって思う。

ナントカ情報学部みたいなとこで僕は大学生活を過ごした。いわゆるIT技術みたいな話よりも、図書館だとか博物館だとか公文書館だとか、聞くだけで退屈な分野がメインで、それも、何か新しい分野に近づけて考えるとかっていう、いわゆる先進性よりは、現実的な落とし所みたいな退屈な話題がほとんどを占めるって感じ。まぁ退屈だったけど、僕は退屈な話がそれほど嫌いではないので、概ねおもしろかった。

その中である先生が、博物館かなんかに務めていたときの話をしていた。まず机に座らされ、なんて書いてあるかまったく分からない古文書を渡される。そしてさぁ読めと言われた、という話。話のオチとしては、ずっと同じものを見続けているうちに読めるようになった、という感じ。

正しい道順で、1 から 10 へ学んでいくってことも大事だけど、パターンとか身体的感覚みたいなもので学んでいくってことも、同じくらい大切なんじゃないかって思う。

難しくて、とても理解できないような本でも、一度読んでおくと、理解はできなくても何かしらの記憶は残る。上記の先生が、情報学概論みたいな講義で最初に語ったのは、今理解できなくてもとりあえず聞いておけば、後で「そういえばそんな事言っていたな」と思い出す時があるということだった。とりあえず頭の中に入れておく。きちんと理解できていなくても、確かに一度聞いたという記憶があるだけで、後の理解の助けになる。


なんか前にも同じ事書いた気がするし飽きたから終わる。

GW TODO!!!!

今週のお題ゴールデンウィーク

せっかくのまとまった休みなので、目標を持って過ごしていきたいですね。まぁ、初日の昼間から酒飲んで寝てを繰り返して、やろうと思っていた洗濯さえしなかった僕なんですけど。

仕事中の暇な時間に、ちょっと vim を再入門してました。とてもおもしろいです。操作を覚えるのは使っていくうちに何とかなるだろうということで、とりあえずこれで、ひと通りの情報を閲覧したりまとめたりする環境を Dropbox と連携して作っていけたらなって思います。とにかく僕は Evernote から離れたい。

次に本棚。会社に置いてあった本を持って帰ってきたら、けっこう邪魔になる感じで、机と一体化してる棚だけでは足らない感じです。元々このスペースを本棚に使うつもりはあまり無かったので、当初の予定通り、机の裏の壁に本棚を置きたい。できればスピーカーも、良いセッティングになるようにしたいし。でもそうなるとかなり手間がかかりそう。って、だから時間の取れる今やらずしていつやるのか。

次に、さくらの VPS のリニューアルプラン移行をする。技術系ブログについて少しは考える。これはまぁ半日もあればできるはず。はず。

積んでいる本を整理する。最近、どれが読了しててどれを積んでいるのかよく分からない感じなので、積んでいる本は概要だけでもつかめるように目次くらいは読んでおきたいです。


そんな感じで、書いた半分でもできればいいなって思いました。

次に何をしたらいいか

僕は多趣味だ。室内系に偏っているけど、創作関係の趣味が豊富。それもこれもインターネットで簡単に情報が手に入るから、入門は簡単。絵とか、文章とか、プログラミングとか、パソコンを使えば特別な道具などが必要のない分野なら、とりあえず試してみて、ある程度楽しいと思えるくらいの感じでやってます。就職してお金も入ったので最近は楽器なども少しやってる。ギターとかキーボードとか。とりあえず試してみるってのが好きなんだと思う。

でもどれも中途半端。目標を決めたり、予定を組んだりしてもそのとおりに行かないことばかり。僕は本当にそのことに関してウンザリしている。人に見せられるくらいのレベルに達してない趣味なんて、いくらあってもむなしいばっかりって感じする。

多趣味だと、次に何をしたらいいかって迷ってしまうことがある。迷っている間に、なんでもやればいいって思うんだけど、結局何もしないで、適当に本読んだりテレビ見たりして一日が終わる。こんなことじゃダメなって、定期的にこうやって自戒の文章を書くんだけど、そんなの、持って三週間くらいのもので、学業や仕事でゴタゴタし始めると当初の決意なんてすぐに忘れてしまう。

次に何をしたらいいのかってことについて、それでも僕にはひとつの指針がある。高校の英語の先生が言っていた言葉で、とりあえず目の前にある問題を片付ける、というもの。正確な言葉は忘れてしまったけど、今授業でやっている範囲の勉強をしてできるだけ点数を取れ、とか、基礎からきちんと始めようとか思うな、みたいなことを言っていたと思う。

ちゃんとしようって思うと、すぐに基礎だとか、イチから始めるだとか考えがちだ。だけどそれってすごく時間がかかることだ。近道なんてない、基礎からやるべきだって意見はもちろんあると思うけど、テスト勉強とか、仕事の業務上の問題っていうのは、直面しているそれ自体をどうにかしなくちゃいけない。いくら崇高な決意みたいなものがあるからって、最初から基礎固めなんてやっている暇はないんだ(いや、暇がないというのもまた嘘なんだけど……)。

趣味について言えば、好きなことからやれって言い換えられる。教則本に書いてあるからって、一ページ目から律儀にやらなくてもいい。やりたいところだけやればいい。文章ならクライマックスから書くとか。

とはいえ、僕はやっぱり、どちらかと言えば決意の人なので、イチから始めるってことがけっこう好きなタイプ。教則本は一ページ目から始めたいし、文章は頭から書き始めたい。プログラミングの本は必ず「はじめに」を読むし、「謝辞」もついでに読む。

好きなようにやれっていうのが結局のところ僕の言いたいところなんだけど、でもそれでたどりついた自分というのが今の自分だと思うと、やっぱりオススメはできないかもしれない。効率的にやれ、とまでは言わないけど、何か一貫生を持って続けろっていうのは、過去の自分に言いたいところではある。もちろん、過去の自分も同じ事を考えていた。こんなふうな内容の日記を書くのは三回目くらいのような気がする。

どんな言葉でも人を傷つける可能性があるのと同じく、どんな言葉でも教訓になりえると思う。目の前の問題を片付けることを考えろってことを教えてくれた英語の先生は、すごくいいかげんな人だったけど、僕は彼のように生きられたらなって今でも思う。ポケットから大量の胃薬が出てくる苦労性の社会科の先生に対しても、同じような気持ちになる。僕は尊敬できる人をたくさん見てきた。もちろん心のどこかでは馬鹿にしていたのだろうけど。

僕は結局他人を馬鹿にしている分だけ自分を馬鹿にしている。素直に生きるって大事だなって、azusaのアルバムを聞きながら思うんです。最近の一押しです。

ハッピー

ピース。

寝るタイミングを逃したから少し文章を書く。

僕は最近パン屋をよく利用する。おいしい。コンビニのパンは飽きてしまう。コンビニのパンは、新商品はちょっと何考えてるか分からない感じなことが多いし、定番商品は安いしカロリーあるけどそれだけって感じする。あとけっこう油っぽい。

始めてホームベーカリーを買ってパンを作るとき、レシピにあるバターの量に眩暈がした。クッキーの作り方とか知っているし、お菓子にどれだけの砂糖とかバターとか入ってるか知ってるけど、ただ別に普通のパンを作るだけに、これだけの油分が必要なのか。しかし必要なのだ。バターを分量通り入れないと、しっとりした味のあるパンはできない。でも結局のところ半分とか3分の1とかでもパンはできあがるので、食事用のパンならレシピ通りにバターを入れる必要もないと思う。どないや。

このあいだ、食べた後に油が皿に残るような野菜炒めが作りたいと思って、勢い込んで作ってみたけど、油がまったく残らなかった。野菜に吸われてしまった。単純に油の量が少ないとか、下ごしらえの必要とか(素揚げするとか?)、あったのかもしれない。なんにせよ、油を入れるのがなぜか怖い。

人は油を美味しいと感じるそうなので、油を入れておけばたいてい美味しくなる。でも油を入れすぎると最初の方はいいけど、もう三口目くらいで気持ち悪くなる。人によるだろうけど、僕はマヨネーズのかかっている唐揚げというのが苦手で、食べようと思えば平気で食べられるけど、イライラしているときはマヨネーズを避ける。僕はマヨネーズがあまり好きではない。美味しいとは思うけど。どないや。

最近、出勤する先が変わって、その近くでパン屋を探した。2件くらい見つけて、一件はパンが小さい割に値段が高いパン屋で、もう一件は薄暗い、ケーキ屋さんを兼ねたパン屋だった。1は高いからあまり利用したくない。2はパンのバリエーションがそれほどでもないから何回か行ったら飽きそう。あとスイーツ類が美味しそうなので、つい買ってしまいそうなのが良くない。

それで三件目を先日見つけて、そこで買ったパンがとてもおいしかった。よく売れるのか、昼時だとどんどんパンを焼いているようだし、とりあえず飽きるまでは利用できる。値段は安いという感じではないけど、パンが小さくないので男としても嬉しい。最近ひとり暮らしを始めてからよく食べるようになってしまった。


明日は珍しく仕事があるみたいなので早めに寝たかったんだけどこんな時間になってしまった。何だか人生めんどうなことになってきたなって思う。僕は本当は毎朝会社に行ったりとかそういうのは無理なんだ。とはいえ、それが嫌だから何かしようとか考えても、行動に移せるほどたくましい人間でもない。そういうとこが嫌いだ。

僕には嫌いなものがたくさんある。嫌いなものの話を書くのが嫌いだ。だけど僕は嫌いなものについての連想が一番得意だから、一番筆が進む。どうしてこうなったのか分からないけど、とにかく僕はこの状況が嫌いだ。まったくやってられない。

別の日に、同じ夢を見ること

今週のお題「夢」

廃墟の夢だった。そんなところが舞台だなんて、ちょっとかなりかっこいいと思う。廃墟といっても、たぶんモデルは、起きている間に見た工場の絵だった。小学生の頃、廊下に張り出されていた上級生の描いた工場の絵。どうして工場の絵なんて書かされてるのかよく分からなかったけど、今にして思えば社会科見学とかそういうときに書かされたのだろう。工場は鉄骨やパイプがむき出しになっていて、灰色の建物には飾り気のない換気用の窓があった。複雑でありながらシンプル。かっこいい。

だからもしかしたら廃墟ではなかったのかもしれない。全体的に錆びた印象はあったけど、工場なんてだいたいそんなものだ。しかしなんにせよ、そこは廃墟で、工場だった。僕の夢の中では。

縦に長いその工場の通路を僕は歩いている。横を覗くと、パイプや壊れたトタンの隙間から同じように長細い工場の通路が、平行に伸びている。

その風景を見て僕は、この夢を前にも見たと想い出す。何度も見たような気がする。

夢とデジャヴは似ていると思う。というより、ほとんど同じようなものだと僕は思ってる。夢の圧倒的なリアルさと、現実に体感するデジャヴの奇妙さというものは、僕には同じように思える。僕は幼少の頃、よくデジャヴを感じる子どもだった。どの列に並んでいいのかを迷っている僕は、若い担任の女先生が、優しく手を引いて列まで誘導してくれるのを、確かに以前見たという奇妙な感覚で、観ていた。

脳が、身体が勝手に記憶を作り替える感覚。見たこともない景色を見たことのある景色に変え、あるはずのない何かを真実だと思い込ませる。いや、思い込ませるという手順さえ必要ない。ただ真実であると自分自身が感じるだけのことだ。それはとても不思議な感覚で、そのことを思うと僕はとても希望が持てる。

僕は運命論者である。うさんくさいリクルートかなんかが作った適職診断によると、物事はなるようになり、決まっていると僕は考えているらしい。もっともだと思う。物事はなるようになる。決まっている。しかし、決まっているからと言って僕はそれを受け入れるのか。たしかに、受け入れるしかないけれど、僕はそれをすぐに納得できるだろうか。

僕はもう、とにかく昔から自分の中の否定的な感情にイライラしてきた。たとえば僕はイメージの中で、反復したり、同じ動きを繰り返す情景を浮かべるのが好きだった。眠れないときはよくそうした。たとえば右回りの風車を考える。右回りだ。僕は右回りの風車をイメージしたいのだが、僕の中の否定的な何かがそれを許さない。何かを定めようとすると、すぐにその逆をイメージしてそれを壊してしまう。僕はすごくそれにイライラした。そして今も同じように苛立っている。

無理して人前で喋ったり、毎朝学校や会社に行くために起床することに、こんなにもイライラするのはそのせいだ。以前なら自分のイメージの中だけで肯定と否定を繰り返していればよかったのに、勉強や仕事が嫌いになると、それを肯定的に思わなければ続けられないから、同時に否定的になる僕がもちろん否定するのだけど、勉強や仕事というのは、もちろん必要なことだから、僕はつまり生活を否定し、そのような生活を続ける僕を否定する。だからイライラする。

たた、上でも書いたとおり僕は、夢というものが希望になると思ってる。僕がイライラしていること、つまり日々のトップテーマそのものは、僕の肉体的限界や知識的限界ではないのだ。ただ、僕個人のイメージの問題でしかない。左右に振れる振り子のイメージと、その周期を乱す否定的なイメージ。そういった、言ってみればどうとでもなるそんな問題が僕にとっての一番の懸案事項なのだ。もちろんそれは現実の世界をまるっきり書き換えるよりは「どうとでもなる」というレベルの話だ。本当にどうとでもなるなら、とっくにどうにかしてる。

すべては起こり起こること。僕が現実を夢のように素直に受け入れることができるなら、僕はもっと悩まないで済むだろう。デジャヴは決して、人間が先の出来事を予知しているわけでも、たんに予想しているのでもない。ただ頭が既知の光景だと錯覚するだけだ。夢も同じで、今「現実」で起こっいることなのだと錯覚しているだけだ。

それならどうして、本当に現実で起こっていることを僕は今「現実」だと思わないんだろう。否定的になるのだろう。夢には良い夢も悪い夢もある。何度も見る夢や、印象に残っている夢がある。現実と夢に違いなんてない。違いがないと僕は考えるべきなのだ。

でも本当にそれでいいんだろうか。現実を夢のように感じていたり、感じようと努力している今の僕自身が悩みの原因なんじゃないか。分からない。


どういうふうに生きていけばいいのか分からない。どんなふうにでも生きていけばいいのだって思うけど、いつか、歩いているときにどうしようもなくイライラして、何もないのに立ち止まったり、そういうことよりももっと面倒な行動を自分が始めるんじゃないかと、今の生活を続けるとそうなるのではないかと、不安になる。

これはべつに誰かに相談したい類の話ではない。相談できないから、こうやってブログに書いているわけじゃない。相談しても分かってくれる人がいないから書いているというわけでもない。僕にはもっと具体的な問題があって、それについては誰にだって相談できる。これは僕にとってのトップテーマだけど、具体的な問題じゃない。とはいえ生き方や命に関わるということはあるかもしれない。でも、強がっているわけじゃなくて、本当にこれは僕個人の問題なのだ。大事なことだ。